2006年05月08日

『エリ・エリ・レマ・サバクタニ』

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『エリ・エリ・レマ・サバクタニ』 ★★☆☆☆

浅野忠信演じるミズイ。中原昌也演じるアスハラ。
彼らの奏でる音楽が、不快を伴ったノイズにしか聴こえない。
それで、自殺を促すことで死に至らしめるウイルス感染―レミング病を抑制できると言われても…。たとえ生物学的にそうだとして頭で理解することはできても、感覚として拒否してしまう。
勝手な解釈をすれば、こんな暴力的で、非生産的としか思えないことにも存在が許されることを思えば、今ある世界はなんて豊かなのだろうと。死など考えもつかないだろうと。ウイルスを意思が抑制するだろうと。…本作で説明される解釈とはまったく違うけれど。

さらに、本作を観ていると悲観が生を生み、楽観が死を生む気がする。あえて二極化したが、この外には絶望があり、これは生にも死にも振れる。要するに、振り切れていない悲観は生への執着を生み、楽観は死に対する甘さを生むということ。
あえて述べるまでもなく、前者が、宮崎あおい演じるハナ。後者が、戸田昌宏演じる探偵のナツイシ。結局は、死を意識した上で、生きることを望まなくてはレミング病も、音楽も何も関係ない。とどのつまり、作品の外で自分自身、世界の解釈を完結させてしまっているのだけれど…。

ただ意外に思ったのは、思ったよりも世界がクローズされていること。世界規模の話かと思えば、辺境の地の話でしかないし。もちろん、そこから世界に通じていることは示されるし精神世界にも昇華されることもわかるのだけれど、表向きとしてはハナの救済の形を借りて、ミズイの物語を想像するよう構成されたシンプルなもの。
もちろんそれだけでなく、役者陣…とはいっても本業役者でない人も多いが、青山真治の関係者で固められ身内の祭りのような気がしてならないから。
そんな中、宮崎あおいの存在感は群を抜いている。とは逆に、ミズイの元恋人エリコを演じたエリカ(小田エリカ)の変貌ぶりに落胆は隠せない。『ワンダフルライフ』のイメージが強かっただけに。
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『ベロニカは死ぬことにした』

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『ベロニカは死ぬことにした』 ★★★☆☆

ベロニカ…真木よう子演じるトワと同様に「なんでもあるけれど、なんにもない」、何でもなく、変わり映えしない日常に絶望して死を選択する人はいる。芥川龍之介の遺書にあった「将来に対する唯ぼんやりとした不安」も、本作とは至る過程は異にするにせよ類するものであろうし、死を選択しないまでも死を考える人間ともなればさらに数は増えるはず。生きる目的も見出せずに生きることは苦痛でしかない。
だから彼女は死を選んだ。
冒頭、彼女の仕事での変わり映えしない日々、プライベートでの羽目の外しようと、二面性を端的に描くことで、日常に飽き、生きる目的を求め、求めた末に彷徨い失望していることを象徴的に知ることができる。ただ、それだけであればよくある話ではある。
彼女にはかつてピアノがあった。
彼女が自殺に失敗し、放り込まれたサナトリウムの中で、成長と(良い意味でも悪い意味でもの)退化を遂げる過程で明かされる。
彼女の場合、生きる目的がなかったわけではない。迷うことなどあり得ないくらい厳然と、あった。日々、成長を実感できる彩り豊かな世界があった。あったが、それしか見ていなかった。見えなかった。だからこそ、それを失った時に彼女が直面する世界は、ただ単純で変わり映えのしないモノクロの世界でしかなかった。
院長が話す「成長する石」の話が彼女にどれだけの影響を与えたか。青天の霹靂に違いなかったはずだ。見えなかったことが見えた。と同時に、他者から「それで良い」のだと認められた喜びを噛み締めたはずだ。彼女はピアノを通して、他者…母親からの評価を得ており、同時に失ったことに絶望を感じていたから。程度の差はあれども、人は他者からの評価で自らの位置を確かめるところがある。

サナトリウムでの彼女は、自分を肯定することを学ぶ。
サナトリウムの住人たちは、患者、医師、看護士問わず境がない。患者よりもむしろそれをサポートする立場の人間のほうが異常と思えることは多いし、演出として意図的にでもあるのだろう。
結局、異常と正常の境目など曖昧と知るように、自ら見知り作り上げた世界の線引きの曖昧さを知る。線引きされた世界からの解放は、変化へと繋がる。変化は成長へと繋がる。
それはサナトリウムの住人たちにも言えること。
彼女の存在がまた彼らを変えた。
風吹ジュン演じる、パニック症候群を患い全てを失い歩むことを止めてしまった元弁護士は、再び歩みだす。
中島朋子演じる、夢の世界に浸ろうとする主婦は、現実と直面することを決意する。
そして。イ・ワン演じる、夢を追いかけ、否定され、言葉を失い、自らの殻に閉じこもる道を選んだ青年をも変えていく。

正直言えば、物語の余白部分があまりに明らかなために、自分に近付けることが感覚的にあまりできない。できないが、意識的になら理解できる。
物語自体、登場する人間たちは感覚に依るところが多いが、観る側としてそのまま受け入れられない自分がいる。それが作品としての完成度によるものか、自らの殻によるものなのか…。
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2006年05月07日

『LIMIT OF LOVE 海猿』

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『LIMIT OF LOVE 海猿』 ★★★★☆

監督曰く「どんな新しい要素を入れ込もうと考えた時、TVシリーズで全てやり尽してしまった感じがした。(中略)最終的に「1」とまったく同じでいいんじゃないかと」と言うとおり、大雑把に作品を説明するなら「1」と変わらない。手を握りにいく男の物語。
なにせ原作「海猿」の描き手は、成長しない新米医師の物語として名高い「ブラックジャックによろしく」(特に限定されたスパンで話を終結させないといけないテレビ版がそうであった)の佐藤秀峰。それもありかなと。
しかし、本作における主人公、伊藤秀明演じる仙崎大輔が実際に成長していないということはないし(本質的なところは変わらないが/このあたりのスタンスは『踊る大捜査線』の青島刑事のほうに近いか)、時間は大きく経過している。アプローチの仕方も異にする。

前作『海猿』では、訓練生として潜水士となるまで、冒頭で彼らの若さ、無鉄砲さが強調され、後半でひとつの事件を通して一気に一人前の潜水士となる変化を描ききったが、本作では観客の心の準備を経ずに一気に事件へと突入する。そのわりに、そのあと事件内でのイベントフラグが些か少ない気もするのだが、それをまったく飽きさせないで見せきるのは監督の手腕か。

本作から『ポセイドン・アドベンチャー』『アポロ13』『バックドラフト』『タイタニック』『ダイハード』など、昨今の名立たる、ハリウッドのパニックアクションを連想させるのは簡単だ。それら素材をどうリミックスして新たな作品に仕上げるか、その手法に対する是非は毎度上がるが、観客の胸の多くを掴み、作品が持つ力、メッセージが充分なものであればなんら問題ないはず。フジテレビと東宝のタッグで近く始まりを探すなら『踊る大捜査線』からであり、その成功を受けての正統な二代目がおそらく『海猿』だ。
特徴として、クライマックスの連続。特に本作は事件突入があまりに早いので、これひとつで残りの時間を乗り切れるかと勝手な心配もしたが、余計なお世話であった。
大型フェリー「くろーばー号」座礁を発端に、沈没へと刻一刻と悪化の一途を辿る事件は、息つく暇もなく、緊張の連続。ただ、言葉通り緊張が寸断なく続くのであればそれが平均値となり、見せ場が見せ場としての機能を果たさなくなり作品としての面白さは半減するのは当然のこと。本作でそれを感じさせないのは、細かく緩急、もしくは静動がキレをもって機能しているため。
動が、フェリー内に閉じ込められ脱出を試みようとする仙崎や、佐藤隆太演じる、(大輔のバディでもある)潜水士・吉岡ら取り残された四人であるなら、静はいたたまれぬ、動くに動けないもどかしい思いを抱えたままの、ほかの潜水士、対策本部の面々、そして加藤あい演じる、仙崎の恋人である環菜。
急が、閉じ込められたフェリー内での四人の命懸けの脱出と、緩は時折挟まれる四人の、笑いをも含んだ息をつかせるやり取り。
手に汗を握るだけでない。息を呑み、悩み、切なく、笑い、息吐き、吸う。そして願う。渾然一体となり、作品は「1」と同じく、ひとりの手へと向かう。
特にうまいのは、フェリー内で起こる肝心な部分を隠し、観客をフェリーが沈没して行く様を、ただ手をこまねいて見守り、残された仙崎たちの力を信じるしかないフェリーの外にいる者たちと同化させることにとことんこだわること。そこには、付け入る隙のない、ただ信じることだけが残されている。
逆に、そこにいる浅見れいな演じるテレビ報道局員をもう少しうまく使えば、多くのエキストラを配した一般市民まで取り込み、さらに世界は広がったのだろうけれど。ただ、そこまで望むのは高望みであり、また別の見方をするのならば、彼女を配することはさほど意味がなかったと言える。(彼女と、荒川良々演じるディレクターに妙に存在感があるので)

本作は一応の完結編を謳ってはいるが、続編の実現の可能性は、望む声が高くなれば充分にありそう。少なくとも『踊る大捜査線』に比べれば、やり易かろう。監督も言外に匂わせているところもあるし、伊藤秀明ほか主要面子も、引っ張り出すに容易そうであるし。
まだ、終わらない。終わらせたくない。

にしても、環菜の「チェックイン」には負けた…。
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『海猿』

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『海猿』 ★★★★☆

公開当時である夏、先に観た、『デイ・アフター・トゥモロー』が納涼にちょうど良いとしたら本作は真逆。夏に、さらに暑さを増す、情熱をストレートに表現した作品。
今どき日本映画では珍しいくらいだが、このあたりのシェアはハリウッド映画がしっかりと握っているので、今回本作に出合い、ああ日本映画に近頃このジャンルがなかったな、と気付くくらいである。また、『踊る大捜査線』のスタッフが作り上げていることから、その路線と言えなくもない。要するに、ストレートな熱血(青春)モノであり、エンターテイメント性溢れる一品。

前述した通り非常にストレートな物語、アプローチであるのだが、前半と後半とではまったく違った向きにベクトルが向いている。
前半は青春群像劇の趣で、バカバカしいまでの真っ直ぐさをバカバカしいまでに一生懸命やる。それが周りにはどれだけ奇異に映ろうとも。言い換えるなら、その体育会系な一生懸命さが突き抜け、可笑しさを醸し出す。特に水槽での素潜り対決や、訓練での鬱憤を晴らすかのように獣と化して街中へと散っていく姿など、その真摯な眼が逆に笑いを巻き起こす。
体育会系のノリに、中に入ってしまうと半ば付いていけないところもあるけれど、こうやって客観的に見るのは大歓迎だ。そんな立ち位置を認識させ、まさに自分と同じく重ね合わせることができるのが、加藤あい演じる、介護のため休職してまで田舎に戻ってきているヒロインの環菜。こうして客観視できる対照的な冷静な立場を置くことで、彼らをより際立たせることができるし、また観客が同一視できる人物を置くことにもなる。このあたりのバランスはうまい。常道ではあるけれど。

ただ、後半の展開は、よりハリウッド的になり過ぎているかなと。真っ直ぐに、見慣れた同じ形として。比較に上げられる作品として真っ先に、デ・ニーロが出演していた『ザ・ダイバー』が上がるが、もちろんまったくに同じであるはずはない。ただベクトルやトーンは同じ。その真っ直ぐさを、クサいと思わせるまでに昇華させてしまっている。このあたりクサさが、クサさとして残ってしまうのが、日本映画としてこのタイプの作品が熟練していないところで、もう一呼吸置いてくれるとありがたかった。

冒頭に挙げられる「タッグを組み海中へと潜り、ひとりが海中深いところで身動きできない状況で、ひとりが戻れる分しか酸素残量がない場合もうひとりはどうするか?」という問い掛けにも、あまりにもストレート過ぎる。優等生過ぎる答えしかできないのが惜しい。
もちろん、それに相応しい満足と、続く感動は当然あるのだけれど、一方でもうひと捻りあったら、と思う。
ただ、これは観終わってから冷静になって思うことで、実際には最初から飛ばしてくれるので作中にはすっかり嵌まり、その時々はただ手に汗握っている自分がいたりするのだけれど。
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2006年05月06日

『予感』

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『予感』 ★★★★☆

ポラリスのオオヤユウスケ、クラムボンの原田郁子、ハナレグミの永積タカシ、の三人からなるボーカルユニットohana。彼らのデビューシングル「予感」のPVを撮ることになった廣木隆一が、3人と「なら映画にしよう!」と盛り上がり製作されたのが本作。
上映時間51分。長編映画と言うには短い。けれど十分映画な仕上がりを見せたショート・ムービー。もちろん、中ではohana「予感」を一曲まるまる流さなくてはいけないし、物語は曲とリンクしなければならない。となると、物語る時間もテーマも制限される。
“予感”という言葉(もしくは曲)から端を発することになる本作は、曖昧なものを曖昧なものとして、しかし確実の心に残る物語を紡いできた廣木隆一の得意とするところ。そういえば、傑作『ガールフレンド』も“愛”“友情”“エロス”をテーマに、女性を主人公に据える、という縛りがあった。ならば、本作の監督に廣木隆一は間違いない。テーマは“予感”。問題は…時間だ。
ここで廣木隆一は思い切った手段を取った。
モノローグから、物語が立ち上がる段までばっさりと切り捨てた。
だから三本の線から成る物語はどれもすでに進行形だ。
これがohanaの歌う「予感」と実にマッチしている。歌詞で“突然の心変わり”“とまどったまま”とあるすぐあとに、“出会った”“恋におちていく”と、歌詞を全て追えばひとつの恋物語を語っていると取れるものが、こうして端的に上げると、新しい恋の始まりを予感させるものとしても受け取れる。過去を振り返るではない、日常にふと訪れた時間感覚のなさも感じられる。穿った読みをするなら時間軸を意図的に無視しているようにも思える。浮遊感が心地良い。
こうした立ち位置の不確かさがそのままに映画に反映される。
物語の始まりを意識し始めた途端に、これは佳境、もしくは転換期にすでに達していると気付く。
オオヤユウスケ演じる家庭教師・花田は、家庭教師先の姉妹の間で恋心を揺れ動かしている。原田郁子演じる工場勤めのハナは、自分の恋の芽吹きの可能性を横目に見ながら、自ら働く会社が傾き、哀しそうにする社長を見つめる。永積タカシ演じる漫画家・花太郎は、隣に住むヘンなオヤジと、美女との別れ話に聞き耳をたてる。
どれも、物語は動き始めている。彼らは動き始めている。彼らをそう導いた過程は語られない。語られないからこそ、無限に想像は広がる。それもまた、厳選し、端的に言葉を乗せ想像する余白を多く残す歌詞と近い。

それにしても、配役の妙。
観るまで忘れかけていたが(というか脇役の豪華さに目を奪われていた)、主演の三人は音楽のプロであっても演技のプロではない。演出する廣木隆一の巧みさもあるが、何より配役の妙で彼らを浮き上がらせない。
最もニュートラルな佇まいのオオヤユウスケの周りに、貫地谷しほり、河井青菜。家庭教師先で教える女子高生の妹(貫地谷しほり)、さらに姉(河井青菜)に恋心抱き抱かれるというおいしい役どころ。あのシチュエーションで貫地谷しほりに迫られるのは男にとっては拷問。反則。本作の柱とも言える彼のエピソードには、大森南朋も関わり磐石の態勢。
続いて、原田郁子。物語の地味さ、彼女の醸し出す穏やかさに合わせるよう、わりに地味な脇の配役であるが、ここでもっとも関わるのは社長を演じる大口広司。とはいえ、彼の場合、どちらかといえば寡黙に通すので少しでも彩りを施そうと会社同僚に山田キヌヲ(少しの出番ながら抜群の存在感!)、社長夫人(と言うほどに華やかでないけれど)に石井苗子。
最後に、永積タカシ。彼の個性にプラスアルファされたエキセントリックさ。与えられた役どころはコメディリリーフ。もちろん、彼にも恋の予感があり、そこに今井祐子が配されるが、今井祐子との、そして永積タカシとの相手役、三角関係の一角に竹中直人。作中からはみ出すぎりぎりのところで笑いを生む才能は彼の出演作から察しても間違いないところ。永積タカシとのやり取りは笑いと同時に和みを生み、ここばかりは空気も緩む。

進行形の彼らの日常、加速がさらにかかったところで物語の幕は閉じる。当然、その延長線上に何かまたあるのだろうが、それもまた観客の想像に委ねたまま。
ohanaのPVとしての役割を果たす歌の部分はエピローグの直前に挿入される。結局、PVとして端的にこの作品が流れる箇所がここであるよう、少なからず物語との差異を感じるが、こればかりはしょうがない。ただ、廣木隆一が作り出すことを得意とする空気の感じはそのままなのが嬉しい。
このあと、エピローグへと続くがこれはおまけみたいなもの。作中のキャラクターと、現実での彼らとの錯綜感。まあ、突然饒舌に、語りすぎている感は否めないけれど。
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『チェケラッチョ!!』

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『チェケラッチョ!!』 ★★☆☆☆

思い描いていたほどに酷くはなかったが、客(ターゲットとなる若年層)を呼ぶに安易な記号、発想が透け過ぎている。だから作中の彼らがいくら熱くなろうが、常に冷静な自分を認識できるため世界に浸かれる瞬間は訪れない。

今どきの若者を中心に据え、彼らの周りに起こる騒動を描きつつ、核心で爽やかな青春劇、純愛を描く。今時の若者を描くに分かりやすい記号を描き、同時に純朴な彼らを描くともなると、それこそ分かりやすく、振り切れれば『Deep Love』にでもなるのだろう。
しかしここで「沖縄」というフィルターが役に立つ。沖縄という風土が持つ緩やかさ、奔放さが“今どき”“純朴”と反発し会うことの多い記号を、ファンタジーに振り切れることなく成立させる。(『Deep Love』は明らかにファンタジー、もしくはコメディ)
そういう意味で、おそらく安直に浮かんだ“沖縄”という記号の選択は予想以上、もしくは予想通りの効果をもたらしている。が、市原隼人演じる透はじめとする沖縄弁に違和感が強い。主要キャスト4人がひとりとして沖縄弁を生来持っていないことを指摘するのではない。実際に正しい方言を使えているかどうかを指摘しているわけではない。もちろん、役者たるもの作品に合わせ自らを変貌させねばならないと思うが。
近い年代の若者を描き、方言が重要なキーワードとなった『きょうのできごと』『スウィングガールズ』に違和感…というより嫌悪感がなかったのとは対照的に、彼らの発する沖縄弁に嫌悪感がある。そこにある軽さ、からだ。

作品のターゲットとなる年代から求められるのは“格好良さ”だけ、他は何をやっても許される市原隼人についてはこれ以上語ることはしないが、彼らの幼馴染である、柄本佑演じる暁、平岡祐太演じる哲雄、井上真央演じる唯は好感。ただ、透の憧れの人、渚を演じた伊藤歩はミスキャスト。本作でなら本来彼女が演じるは、透たちの側でしょう。『きょうのできごと』での彼女がそうであったように。
と、それだけが原因ではないが、実際、透の渚への恋心は、この年代が持つ大人の女性への憧れ、の平面的なイメージ以上に力を持ち合わせない。
そもそも彼が、彼女への熱い想いを一手に曝け出す場としてあるクライマックスのライブに力がない。というよりも、本作のキーワードであるラップに想いが全くに乗っていない。音楽を中心に据えた作品で、作品と切り離してさえ武器となる音楽にこれほどに力がないのはラップというもの自体、言葉に重さが必要とされるからか。例えばこれがスタンダードであるなら語らずとも曲の持つ歴史が語ってくれるだろうから。
透自身の想いは当然の如く歌詞に乗っていない。彼の歌う歌自体に問題があるわけではない。彼のそれまでのふざけた様を見、その彼が曲に想いを乗せたにしては美辞麗句、彼のパーソナリティからは到底出しえない言葉が続くため。もっと下手くそでいい。乱雑でいい。格好悪くていい。が、彼に求められた“格好良さ”がここで枷となる。普段、能天気でありながら締めるときは締める。そう持って行きたいのは分かる。分かりすぎるがゆえに“ねじれ”も分かり易過ぎる。ラップに乗せた言葉に近付くには彼は能天気過ぎたし、彼を表現するには奇麗過ぎた。

ただし、徹底してターゲットとなる若年層に媚びた作りは感心したもの。主要キャストに加え、玉山鉄二、陣内孝則、ガレッジセール、KONISHIKIと、彼らにとって豪華と分かり易いキャストを集め、一方で、(ミスキャストではあるが)伊藤歩、平田満、松重豊、と実のあるキャストもそつなく配している。
監督、プロデューサーとテレビ畑にどっぷり浸かった者らしくマーケティングは完璧。実際に客は呼べているよう。ただ、あまりにも安直さが透けているだけ。このマーケティング力が今の日本映画の隆盛を作る一翼を担うことを否定はしないし、その中に佳作もある。がしかし、監督に個性でなく万能さが求められ作家性に頼ることない以上、せめて物語に頼った作品を仕上げてもらいたい。記号だけであとに何も残らないものは、要らない。
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『小さき勇者たち GAMERA』

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『小さき勇者たち GAMERA』 ★★★☆☆

「平成ガメラ三部作」より六年の月日を経て、ガメラが帰ってきた。
「平成ガメラ三部作」は、怪獣マニアだけでなく、普段怪獣映画を観ない者にも評価された、怪獣映画としては比肩なき傑作。しかし、ターゲットとして怪獣マニアは熱狂し、彼ら以外の大人をも絶賛した一方で、子供たちは切り捨てられた。子供たちの味方であるガメラが子供たちを、ある意味見捨てた。そして怪獣映画の金字塔を打ち立てた。このことは、映画版「クレヨンしんちゃん」にも重なる。
テレビからのおバカ路線を引き継ぐ形で当然スタートしたが、転機となったのが『クレヨンしんちゃん 嵐を呼ぶ モーレツ!オトナ帝国の逆襲』。昭和への郷愁を大いに誘ったこの作品は、まさに、昭和に幼少、青春時代を送った大人のための「クレヨンしんちゃん」。置いてきぼりを食らわされた子供たちを尻目に大人たちの評価を一気に高め、これまたアニメ映画を、アニメ映画ファンだけでなく、普段アニメ映画を観ない者にも目を向けさせた。監督の原惠一は続く、『クレヨンしんちゃん 嵐を呼ぶ アッパレ!戦国大合戦』で、その年をも代表しえるエンターテイメントの大傑作を生み出し頂点を極めた。しかし翌年、原惠一は事情により降板。水島努へとバトンタッチされた『クレヨンしんちゃん 嵐を呼ぶ 栄光のヤキニクロード』は十分に大人に鑑賞に堪えうる佳作ではあるが、少なくとも原惠一が描いたベクトルを一度リセットし、「クレヨンしんちゃん」を子供たちに還した。
本作…『小さき勇者たち GAMERA』の立ち位置を、「クレヨンしんちゃん」に重ねるなら『クレヨンしんちゃん 嵐を呼ぶ 栄光のヤキニクロード』である。
ガメラは還された。子供たちに。

本作におけるガメラは、そのままヌイグルミ。
「ガメラ」シリーズと人気を二分する「ゴジラ」シリーズにおけるミニラのように、クリッとした目玉が愛嬌たっぷり。富岡涼演じる透の見守る中、孵化したガメラ、子ガメ時代のガメラを演じたのが実在するカメ(ケヅメリクガメ)だけあって愛くるしいのは当然のことだが、成長してからの姿も愛くるしさはそのまま。そこに「平成ガメラ三部作」におけるガメラのような、凄みはない。
というよりも、本作におけるガメラは主役でさえもないのだけれど。タイトルでもサブタイトルに追いやられているよう、あくまで脇役。主役は、涼や、夏帆演じるヒロイン麻衣、涼の遊び仲間、そのほか子供たちである。
ガメラを育てるエピソードなど、そのまま、動物や昆虫などを飼おうとする子供たちの体験がそのまま反映されている。例えば、ガメラを飼うことを子供たちの秘密とするエピソード。大人たちを信じないわけではない。秘密を持つことへの喜び。そんな彼らに対し、大人は羨ましさと疎外感を持つ。また、漫画や彼らのする遊びに今の子供たちが象徴される。(一方で、性別の違う幼馴染同士の家が極端に隣接し、お互いの二階の窓越しに行き来や物の受け渡しができるという、むしろ懐古的な住風景が用意されてもいるのだが)
津田寛治演じる涼の父親や、寺島進、奥貫薫演じる、麻衣の両親たちも大人としての立ち位置を十分に認識させつつ、あくまで子供たちのやることを頭ごなしに否定しない。だからこそ、本作の敵(と言うと大袈裟か)と呼べるのは、頭でっかちで盲目的、典型的に融通の利かない大人の代表である、田口トモロヲ演じる一ツ木参事官や石丸謙二郎演じる雨宮教授かもしれない。

主人公たる子供たちは、現実的とは思えない手段で、大人と、ガメラが直接戦うこととなる海魔獣ジーダス。もちろん、手段を考えるならいくつもある中で現実的な手段も講じられたことだろう。が、あくまで子供たちの映画としての本作は、拾ったカメがガメラだったというおおよそあり得ない起点からのファンタジーを貫き通す。
ひとつに、不思議な力を持つ赤い石。ひとつに、子供たちだけに通うテレパシーのようなもの。彼らはこれらを拠り所、もしくは手段にして戦う。子供じみた、と断じてしまうのは簡単ではあるが、これはこれで良いのではないかと思う。ただ、あくまで“不思議な力”という言葉だけ頼っており、例えば赤い石にしてもどんな力を持つか、どのような過程を経て受け継がれていくのか、など多少の説明があってほしかった。説明不足にもほどがある。

そんな中ひとつ、明らかに子供映画の枠から飛び出ているのが、海魔獣ジーダス。
ギャオスの肉片を食べた爬虫類が変異巨大化して生まれたと説明されているが、ギャオスの面影はなく、むしろ恐竜。T-REXやヴェラキラプトル、トリケラトプス、ステゴザウルスなどメジャー恐竜の類ではなく、ディロフォサウルス。『ジュラシック・パーク』に登場した、脚色された形でのディロフォサウルス。エリマキトカゲに似た小型の肉食獣(実際には中型であったらしいが)と言えば分り易かろう。
さらに、口からは銛のよう、長く伸び武器となる舌を出すわ、おおよそグロテスク。個人的には血肉踊るフォルムであるが。(ただ、動き出すと着ぐるみらしい妙な愛らしさはある)
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『輪廻』

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『輪廻』 ★★★★☆

ホラーとして見ればある意味完成されていると言える。
怖さの度合いとかでなく、安心して観ていられるというか。演出や物語でなく、少し漠然としているかもしれないが、色調、雰囲気から。
『呪怨』が意味あと付けでの、凶暴なまでに無方向に突き進む恐怖とするなら、本作は先ず意味有りき、の整然とした恐怖。
“輪廻転生”という題材というか思想、有りき。
しかし、自体の意味は世間に浸透していようと具現化されたものではない。それを地に着かせるために、先ず現実にあった事件を立ち上げ、起点にし、劇中劇という形でさらに身を纏う。ただ、巧みに輪郭はぼかす。それを補い、さらに身を纏う形で劇中劇の役者たち、起点となる事件に吸い寄せられるよう取り込まれる人間たちを、唯一形あるものとして提示させる入れ子のような構造。

35年前にあった大量無差別殺人。ひとりの殺人者と、11人の被害者。
作中で、事件を題材に映画が作られる。椎名桔平演じる映画監督・松村がメガホンを取る「記憶」という作品。そこに役者として参加することになる、優香演じる新人女優・杉浦渚ら12人の役者たち。
35年前にあった事件は、余計な情報を与えられず、おぼろげに、しかし確かに存在する。演じる役者や監督たちは目に見え存在するが、仮の姿を演じるに過ぎない。
彼らは、35年前と現在を一方向で映し出すに過ぎない。
それを結ぶ存在として、輪廻転生した者たちがいる。
彼らに当然自覚はない。(一部を除いて)
だが、彼らがその自覚を取り戻した瞬間、一般になら輪廻転生と聞き、「昔、私は何々だったのよ」と話のネタにしかならないものが、恐怖へと変わる。前世での最後の記憶がイコール恐怖だからだ。
事件自体は恐怖を想起させるものだが、イコール恐怖にはなり得ない。恐怖は、劇中劇のタイトルにあるよう“記憶”にある。
あくまで恐怖の本質、物語の核心を見抜かれようとはしない。

うまいな、と思うのはこれ大まかに捉えて決して特出した題材でないからこそ。
それこそ「本当にあった怖い話」にあるような題材。それを、中心に位置する事件自体を幾重に囲みながら二重三重と身を纏う構造にする。ありがちが故に次第に進行していく新たな恐怖を鵜呑みにさせ、実は肝要となる部分から目を逸らそうとする。事件をまったく別角度からアプローチしていく香里奈演じる大学生・木下弥生の存在もそう。恐怖を前に、彼女の存在の意味を深くは考えない。
縦方向にも横方向にも、35年前の事件から派生した物語や人間が配置されるため、リアルタイムで何が進行しているのかを掴みきれない。否。掴みきれていると錯覚するが、元から勝手に想像し得る発想でしかない。

個人的なことを言えばさほどの恐怖は感じないで、逆に“サプライズ”に至るまでの道筋や雰囲気に思わずニヤついてしまい、感情を言葉に置き換えるなら楽しくてしょうがないのだが、同席した連れや一緒に退場してきた人たちの話を聞くと、『呪怨』と同じく、恐怖自体が生活に密着しているので怖い、そして、気持ちが悪い、らしい。この手の作品から受ける生理的反応は人によって極端に左右したりするから一概にどう、と断じるのは難しいが、一応のところ着地点を見付けるのなら、怖く、気持ち悪いのだろう。
一見、無作為に無差別に選ばれた犠牲者たちの恐怖を描ききった『呪怨』も結局そういうところが評価されてのことだろうから、清水崇の真骨頂健在、と言えるかもしれない。

キャスティング的にも一見驚きを持って迎えるだろうけれど、実のところそうでもない。
『呪怨』にしても、メジャーに成り上がった途端、アイドル(女優)の奥菜恵、酒井法子がキャスティングされているわけだし、普通にホラーといえばメジャーであるほど、玄人受けする女優を廃したりするもの。
ただ、優香がそれなり器用なのは知っていたが、ホラー作品にこれだけフィットするとは思わなかった。キャラクターの個性が一方に振り切れているので形にしやすいのはあるにしても、彼女のバラエティ番組から受けるイメージを完全に覆しての熱演あってのこと。
香里奈、椎名桔平らは思ったとおり。演出のおかげか、昨年一気に映画での露出があるも、新人としての拙さが残った香里奈もそのことをさほど感じないまま。
また、ホラー作品常連となりつつある、松本まりか(というか『ノロイ』の印象が強いだけだけれど)、清水組常連の藤貴子、諏訪太郎の活躍も嬉しい。
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『かえるのうた』

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『かえるのうた』 ★★★★☆

『たまもの』と続けざまに観たのだが、この手の作品本当無駄がない。無駄がある…とすれば、必要以上に予定回数挿入される濡れ場なのだけれどそれを否定しては本作も成り立たない。
女性ふたりの浮遊感のある日常。と捉えることもできるし。
女性同士の友情。と捉えることもできる。
自らの居場所(帰る場所)を探す女性ふたり、とタイトルにある「かえる」を、“帰る”と“蛙”、ダブルミーニングで捉えそこから作品のテーマをも捉えることもできる。
一緒くたにしたのが本作。といってももちろん複線が並行しているのでなく、同一線に複数の意味を持たせ語られるために、一見シンプルであるのに深い。深いけれど、それを強く主張したりしない。

漫画喫茶で読みたい本を取り合い喧嘩にまで発展…という最低の出会い方をする、向夏演じる朱美と、平沢里菜子演じるきょうこ。しかし、漫画喫茶から追い出された帰り道、不思議とふたりは意気投合。
裁縫工場で働く朱美。将来自分の作った服を着させることを夢見て、夫たる(実は彼が夫であることを観終わったあと知った)、吉岡睦雄演じる良男と暮らしている。意図的か、吉岡睦雄の演じる役の名前は『たまもの』と一緒。脱線ついでに彼の話をもう少しすると、『たまもの』ではいかにも自堕落でやる気のなさそうな郵便局員を素のように演じていたかと思えば、本作は一転、髪の毛を伸ばし一見しもてそうに、髪型や顔つきだけでなく所作までも変わっていたのには驚いた。
話を戻す。朱美と良男の夫婦生活。良男は平気でゴスロリの浮気相手、七瀬くるみ演じる渚を自宅に連れ込み、それを朱美に目撃されたとしてもどこ吹く風。
一方のきょうこ。昼夜逆転の生活を送り、夜は漫画喫茶で漫画を読むか、援助交際で身体を売り、昼に寝る生活。ただ、彼女にも夢があり、漫画好きが高じ漫画を描くようなり、それでいつか生活ができたらと思っている。

朱美ときょうこ、外見一見して両極端のふたり共通するのは、自らの居場所の不確かさ。手の届くぎりぎりの距離にある夢。ふたりが互いを必要とし、一方で反発しあうのは、単純に漫画好きとしてもそうであるし、不確かな今を確かめ合える同士としての親近感と、お互い鏡を見るような不快感が同居しているから。
不起用ながら幸せを求めるふたり。彼女たちは道を間違いながらも確実に距離を縮め合い、今をひたすら生きていく。
そこに悲しい現実が襲い、二人の仲は現実の距離的意味合いで裂かれる。

この時点まで、朱美の素性に余計な説明は加えられないし、彼女の夫である良男…彼が夫であることが最後まで知り得なかったよう、彼についてはさらに説明がない。彼女の女癖の悪さだけが記号として扱われ、またこの手のプログラムピクチャーに必要な、男優としての役割のみ特出される。女性ふたりの距離の縮め具合もただ漠然としていて確たるものとしては提示されない。
しかし、それらも朱美ときょうこ、ふたりが裂かれてから以降のくだり、驚異的な余白の使い方に比べれば驚きに値しないのだが。
あくまで寓話。
彼女たちの境遇、夢、そして今は記号として力を発揮すれば良い。長い道程を一時間程度の時間で語ることなど到底できない。だからこそ時間をも、現実をも超越し、踊る。万事、結果オーライ。全てを肯定するかのように。歌われるシンプルな「かえるのうた」(すごくいい)。全てを超越しての突き抜け具合。これこそ映画だと感じる最高の瞬間。

ところで、『たまもの』でも主人公たる女性の部屋がボウリング一色に彩られていたように、本作でも朱美の部屋が蛙グッズ一色に彩られている。蛙の気ぐるみを朱美ときょうこ、互いに着まわしてくれるサービス付き。これらがとことん可愛らしい。
posted by やすゑ at 23:35| Comment(15) | TrackBack(3) | 映画 (か) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

『たまもの』

たまもの.jpg

『たまもの』 ★★★☆☆

盲目。狂気。無垢。
どの言葉が一番にしっくり来るのだろう。
ふとしたきっかけで知り合った郵便局員を、時に執拗に、時に盲目的に。別れる意味も分からない。心の隙間を何かと思う。自ら言葉を発することない無垢な女性がひたすらに追いかける純情。ストーカーと化してしまえば意味することの説明もひとことに簡単に済むのだけれど、監督のいまおかしんじと主演の林由美香はそうとはさせない。

ボウリング場で働く、林由美香演じる愛子。
彼女はただ請われるままにボウリング場の店長である男の性欲を受け止め、一方で、郵便局員である彼、吉岡睦雄演じる良男に尽くす。思いを弁当に託し毎日毎日彼の元に届ける。疎ましく思う彼の気持ちを立場を慮らない彼女を無神経とは呼べない。呼べない魅力が彼女にある。無垢、と呼ぶのが一番しっくりくるか。
濡れ場でのあえぎ声でしか言葉を発することのない彼女。コミカルな動きで心情を表現したかと思えば、何の冗談かと思える動きも。まったくに掴みどころのない彼女だが、一途に、愛らしい魅力に溢れる。だからこそ、もどかしい。
コケティッシュなのとは違う。冒頭の防波堤の上でひとり弁当を食す彼女の姿からして、妙に乾いたイメージがある。反面、30歳半ばとは思えぬ可愛らしさ。特に目を見広げた時の、白目がちな大きな目をくりくりさせるさまは子供のよう。
しかし、同時に狂気を感じるのも確か。この恋愛劇が辿り着く先から巻き戻しての結論ではない。大きな目が魅力的であることと同時に、目の下の隈が常に意識される。彼女の、ボウリング愛に満ちた部屋はコミカルかつ愛すべきものであるが、喋るボウリング球に象徴される妄想も同居する。
コミカルと狂気。現実と幻想。愛らしく妄執的。その狭間を行き来する。
全て超越したところで濡れ場の彼女。思いつめたような、痛切な姿が彼女の本当の姿なのだと。だが、その時だけにしか自らをさらけ出すことのできない彼女にまたもどかしさを募らせる。堂々巡り。

シンプルに分かりやすく魅力をふりまく、良男の同僚であり彼を誘惑する、華沢レモン演じる郁美。押しの強さは愛子に通じるがとにかく分かりやすい。愛子を捨て、郁美になびく気持ちは十分すぎるほどに分かる。だが、振れたとしてもまだ愛子に戻ろうとする反動力にあがなえない気持ちも分かる。また、戻る。

良くも悪くも、林由美香の魅力に全編彩られ縛られた一品。
posted by やすゑ at 23:26| Comment(0) | TrackBack(1) | 映画 (た) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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