2006年05月10日

『ロボコン』

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『ロボコン』 ★★★★☆

冒頭、長澤まさみの舌足らずな感じと、オープニングタイトルの安っぽさ(狙い?)を見た時、正直ダメか…と思ったけれど、これがこれが。
比較されることの多い『ウォーターボーイズ』『ピンポン』とは、一風変わった青春時代を切り取った点では似ているが、演出はじめ他は全く違うベクトル、印象。
何よりも先ずロボット製作に頑張る4人が陰の方向にオーラを発していること。先に挙げた二作が結局はスポ根であり、いくらヘコもうとそこにはスポーツが持つ陽のオーラがあった。対し、こちらは理数系の青春映画、という惹句からも分かるとおり、インドアにありがちなイメージが付きまとう。良し悪しはともかく、それは演出にも実際のロボコン風景にも顕著で、総じて地味と言って良いかもしれない。
しかしそれが却ってウソのなさに通じるから不思議だ。

『ウォーターボーイズ』『ピンポン』にはある意味、青春を飛び越したウソがあった。別に否定的な意見でなく、それがそれら作品の面白味に繋がった。青春という名を借りたフィクション。もちろん強く共感した人もいるのだろうけど、どうしても自分を重ねるに難しかった。
しかし『ロボコン』は違う。
近い。自分が工業高校出身だから感じる身近さも当然多分にあるのだろけど、それを差し引いたとしても青春時代、普遍である何かがある。
例えば、ロボコン決勝前日。仲間で夜遅くロボット製作に力注ぐ合間、夜食のラーメンを皆で啜る風景。里美が言う。
「今日がずっと続けばいいね」
ありきたりな風景、と捻くれたことも言えるのだけど、これである。これぞ青春。青春という文字から想像できる青さや懐古とは違う。自分が確実に過ごしてきた、自分の一部と化して決して色褪せない風景。
このシーンに集約されるように、全編通して描かれるのは、仲間と、ひとりひとり力を合わせ、結束し、何かを成し遂げる至福の時間。瞬間。
派手さはなく、観客を煽る演出もなされていない。狙いか、はたまた天然かは分からないが、下手すれば抑揚をなくした演出は人の心に素直に入り込み、深くを抉る。
なぜかエンディング曲だけが妙に弾けているのだが、これは彼らが身体を使って表現するだけでは足りない心の爆発を表現した結果…と好意的に解釈しておく。

四人の仲間、それぞれが生きた、ひとりとして欠いていけないという思わせる脚本も見事。決して奇を衒っていないのだけど、それが却って昨今では新鮮さをましたかもしれない。

演じる、ムードメーカーで映画の主役である里美に長澤まさみ。前述した通り、冒頭舌足らずな感じで甘ったるく演じてこられた時にはどうかと思ったが、彼女の成長とともに生まれる真摯さと混ざり合い大いなる魅力になるから不思議。
小栗旬、伊藤淳史、塚本高史ら三人もそれぞれの役割を確実にこなしている。特に伊藤淳史の優柔不断さが好きだ。存在は薄いけれど、決して欠いてはいけない微妙な存在をうまく表現している。
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2006年05月09日

『リンダ リンダ リンダ』

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『リンダ リンダ リンダ』 ★★★★★

彼女たちを見せ物にした作品ではない。あくまで、彼女たちが過ごした時間を共有する作品である。彼女たちに姿を重ね合わせるも良し、彼女たちを少し離れた距離から見るも良し、自らの経験としてある時間を重ね合わせるも良し。
ただ、どちらかと言えばリアルタイムで彼女たちと姿を重ね合わせるよりも、過去の自分の姿を彼女たちでなくとも、その世界に重ね合わせられるほうが感情移入もしやすい。
「今を思い出になんてしない」と作中で女生徒が語るが、作り手は現実にそれを信じていない。いや、信じていないからこそ作られた空想世界(映画)の中にそれを実現しようとする。
だからこそ、本作は幕引きをしない。

この手の作品で近作近いものを探すなら間違いなく『ロボコン』だ。対外的な溌剌さよりも、仲間内との、得がたい彼女らだけが持ち得た珠玉の時間をただただ映し出す。
夢中になるあまりの時間の消失。激突。語らい。決して派手さはないけれど。
ペ・ドゥナ演じる韓国からの留学生・ソンが誰もいなくなった露店を独り駆け抜けるが、彼女たちの文化祭は、場にあるのでなく、仲間との時間の中にある。
くさい言い方をすれば、この時間こそ永遠であり、それを切り取ろうとするのが本作だ。

ただ、あくまでカメラは彼女たちを至近で捉えようとはしない。
ただ単純に、監督である山下敦弘の作風とも言えるが、実のところ、監督自身やそして自分とも重なるところのある、中心にいなくとも、素直に近付きたくて近付けなかった人間たちの視点であるのではないかと思う。だからこそクライマックス、舞台上で歌う彼女たちだけでなく、夢中になって取り巻く生徒だけでなく、一歩離れた場所から彼女たちを見上げる生徒さえも映し出そうとする。そこにいる人間のジレンマをも映し取ろうとする。
それを映画的でないと捉えることは簡単であるし、最近では矢口史靖監督の『ウォーターボーイズ』『スウィングガールズ』を絶対として、それと比することで批判することも簡単だ。どちらの切り口が正しいとは言わない。ただ、本作では彼女たちは刹那的に、彼女たちのみをフィルムに収めているのでなく、永遠に時間をもフィルムへと収められている気がしてならない。

タイトルの由来となり、作中のガールズバンド「パーランマウム」が奏でる「リンダリンダ」。原曲を歌っていたブルーハーツに、作中でこれまた歌われたり口ずさまれたりするユニコーン「すばらしい日々」、ジッタリンジン「プレゼント」。これら曲は、ある年代の人間にとっては、彼女たちの仲間と共有した時間と同様に、思春期の過程で心に刻まれ、絶対的な位置を占める名曲。
歌は記憶に結び付く。だからこそ、名曲の数々が、自分の記憶と結び付き作中から得られるだけでない、自分の中にある何を目覚めさせることでまた作品を輝いたものとしてくれる。

もちろん山下節も健在で、ソンを中心とした日韓のカルチャーギャップ、言葉のギャップに頼るところはあれど、淡々と、大笑いはしないけれど思わず笑みをこぼしてしまう、ちょっと毒も入った笑いがところどころに塗されている。
「パーランマウン」のメンバーそれぞれを演じるペ・ドゥナ、前田亜季、香椎由宇、関根史織から、容易に想像できる華やかさは決してない。紋切り型に高校生というイメージから得られる溌剌さもない。極端に振れる形で陰湿でも当然ない。ただ、漠然とした悩みや、切なさの裏にある喜びを噛み締めたような姿を見せ、カメラは写し取る。
山下組ではお馴染みの山本剛史が今回おいしい役どころ。他、湯川潮音、山崎優子ら本業ミュージシャンが本領発揮できる役どころで記憶に残る歌声を披露。甲本雅裕が教師役に抜擢されているのはブルーハーツとの繋がりからか。
posted by やすゑ at 20:24| Comment(0) | TrackBack(2) | 映画 (ら) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年05月07日

『LIMIT OF LOVE 海猿』

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『LIMIT OF LOVE 海猿』 ★★★★☆

監督曰く「どんな新しい要素を入れ込もうと考えた時、TVシリーズで全てやり尽してしまった感じがした。(中略)最終的に「1」とまったく同じでいいんじゃないかと」と言うとおり、大雑把に作品を説明するなら「1」と変わらない。手を握りにいく男の物語。
なにせ原作「海猿」の描き手は、成長しない新米医師の物語として名高い「ブラックジャックによろしく」(特に限定されたスパンで話を終結させないといけないテレビ版がそうであった)の佐藤秀峰。それもありかなと。
しかし、本作における主人公、伊藤秀明演じる仙崎大輔が実際に成長していないということはないし(本質的なところは変わらないが/このあたりのスタンスは『踊る大捜査線』の青島刑事のほうに近いか)、時間は大きく経過している。アプローチの仕方も異にする。

前作『海猿』では、訓練生として潜水士となるまで、冒頭で彼らの若さ、無鉄砲さが強調され、後半でひとつの事件を通して一気に一人前の潜水士となる変化を描ききったが、本作では観客の心の準備を経ずに一気に事件へと突入する。そのわりに、そのあと事件内でのイベントフラグが些か少ない気もするのだが、それをまったく飽きさせないで見せきるのは監督の手腕か。

本作から『ポセイドン・アドベンチャー』『アポロ13』『バックドラフト』『タイタニック』『ダイハード』など、昨今の名立たる、ハリウッドのパニックアクションを連想させるのは簡単だ。それら素材をどうリミックスして新たな作品に仕上げるか、その手法に対する是非は毎度上がるが、観客の胸の多くを掴み、作品が持つ力、メッセージが充分なものであればなんら問題ないはず。フジテレビと東宝のタッグで近く始まりを探すなら『踊る大捜査線』からであり、その成功を受けての正統な二代目がおそらく『海猿』だ。
特徴として、クライマックスの連続。特に本作は事件突入があまりに早いので、これひとつで残りの時間を乗り切れるかと勝手な心配もしたが、余計なお世話であった。
大型フェリー「くろーばー号」座礁を発端に、沈没へと刻一刻と悪化の一途を辿る事件は、息つく暇もなく、緊張の連続。ただ、言葉通り緊張が寸断なく続くのであればそれが平均値となり、見せ場が見せ場としての機能を果たさなくなり作品としての面白さは半減するのは当然のこと。本作でそれを感じさせないのは、細かく緩急、もしくは静動がキレをもって機能しているため。
動が、フェリー内に閉じ込められ脱出を試みようとする仙崎や、佐藤隆太演じる、(大輔のバディでもある)潜水士・吉岡ら取り残された四人であるなら、静はいたたまれぬ、動くに動けないもどかしい思いを抱えたままの、ほかの潜水士、対策本部の面々、そして加藤あい演じる、仙崎の恋人である環菜。
急が、閉じ込められたフェリー内での四人の命懸けの脱出と、緩は時折挟まれる四人の、笑いをも含んだ息をつかせるやり取り。
手に汗を握るだけでない。息を呑み、悩み、切なく、笑い、息吐き、吸う。そして願う。渾然一体となり、作品は「1」と同じく、ひとりの手へと向かう。
特にうまいのは、フェリー内で起こる肝心な部分を隠し、観客をフェリーが沈没して行く様を、ただ手をこまねいて見守り、残された仙崎たちの力を信じるしかないフェリーの外にいる者たちと同化させることにとことんこだわること。そこには、付け入る隙のない、ただ信じることだけが残されている。
逆に、そこにいる浅見れいな演じるテレビ報道局員をもう少しうまく使えば、多くのエキストラを配した一般市民まで取り込み、さらに世界は広がったのだろうけれど。ただ、そこまで望むのは高望みであり、また別の見方をするのならば、彼女を配することはさほど意味がなかったと言える。(彼女と、荒川良々演じるディレクターに妙に存在感があるので)

本作は一応の完結編を謳ってはいるが、続編の実現の可能性は、望む声が高くなれば充分にありそう。少なくとも『踊る大捜査線』に比べれば、やり易かろう。監督も言外に匂わせているところもあるし、伊藤秀明ほか主要面子も、引っ張り出すに容易そうであるし。
まだ、終わらない。終わらせたくない。

にしても、環菜の「チェックイン」には負けた…。
posted by やすゑ at 22:24| Comment(0) | TrackBack(9) | 映画 (ら) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年05月06日

『輪廻』

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『輪廻』 ★★★★☆

ホラーとして見ればある意味完成されていると言える。
怖さの度合いとかでなく、安心して観ていられるというか。演出や物語でなく、少し漠然としているかもしれないが、色調、雰囲気から。
『呪怨』が意味あと付けでの、凶暴なまでに無方向に突き進む恐怖とするなら、本作は先ず意味有りき、の整然とした恐怖。
“輪廻転生”という題材というか思想、有りき。
しかし、自体の意味は世間に浸透していようと具現化されたものではない。それを地に着かせるために、先ず現実にあった事件を立ち上げ、起点にし、劇中劇という形でさらに身を纏う。ただ、巧みに輪郭はぼかす。それを補い、さらに身を纏う形で劇中劇の役者たち、起点となる事件に吸い寄せられるよう取り込まれる人間たちを、唯一形あるものとして提示させる入れ子のような構造。

35年前にあった大量無差別殺人。ひとりの殺人者と、11人の被害者。
作中で、事件を題材に映画が作られる。椎名桔平演じる映画監督・松村がメガホンを取る「記憶」という作品。そこに役者として参加することになる、優香演じる新人女優・杉浦渚ら12人の役者たち。
35年前にあった事件は、余計な情報を与えられず、おぼろげに、しかし確かに存在する。演じる役者や監督たちは目に見え存在するが、仮の姿を演じるに過ぎない。
彼らは、35年前と現在を一方向で映し出すに過ぎない。
それを結ぶ存在として、輪廻転生した者たちがいる。
彼らに当然自覚はない。(一部を除いて)
だが、彼らがその自覚を取り戻した瞬間、一般になら輪廻転生と聞き、「昔、私は何々だったのよ」と話のネタにしかならないものが、恐怖へと変わる。前世での最後の記憶がイコール恐怖だからだ。
事件自体は恐怖を想起させるものだが、イコール恐怖にはなり得ない。恐怖は、劇中劇のタイトルにあるよう“記憶”にある。
あくまで恐怖の本質、物語の核心を見抜かれようとはしない。

うまいな、と思うのはこれ大まかに捉えて決して特出した題材でないからこそ。
それこそ「本当にあった怖い話」にあるような題材。それを、中心に位置する事件自体を幾重に囲みながら二重三重と身を纏う構造にする。ありがちが故に次第に進行していく新たな恐怖を鵜呑みにさせ、実は肝要となる部分から目を逸らそうとする。事件をまったく別角度からアプローチしていく香里奈演じる大学生・木下弥生の存在もそう。恐怖を前に、彼女の存在の意味を深くは考えない。
縦方向にも横方向にも、35年前の事件から派生した物語や人間が配置されるため、リアルタイムで何が進行しているのかを掴みきれない。否。掴みきれていると錯覚するが、元から勝手に想像し得る発想でしかない。

個人的なことを言えばさほどの恐怖は感じないで、逆に“サプライズ”に至るまでの道筋や雰囲気に思わずニヤついてしまい、感情を言葉に置き換えるなら楽しくてしょうがないのだが、同席した連れや一緒に退場してきた人たちの話を聞くと、『呪怨』と同じく、恐怖自体が生活に密着しているので怖い、そして、気持ちが悪い、らしい。この手の作品から受ける生理的反応は人によって極端に左右したりするから一概にどう、と断じるのは難しいが、一応のところ着地点を見付けるのなら、怖く、気持ち悪いのだろう。
一見、無作為に無差別に選ばれた犠牲者たちの恐怖を描ききった『呪怨』も結局そういうところが評価されてのことだろうから、清水崇の真骨頂健在、と言えるかもしれない。

キャスティング的にも一見驚きを持って迎えるだろうけれど、実のところそうでもない。
『呪怨』にしても、メジャーに成り上がった途端、アイドル(女優)の奥菜恵、酒井法子がキャスティングされているわけだし、普通にホラーといえばメジャーであるほど、玄人受けする女優を廃したりするもの。
ただ、優香がそれなり器用なのは知っていたが、ホラー作品にこれだけフィットするとは思わなかった。キャラクターの個性が一方に振り切れているので形にしやすいのはあるにしても、彼女のバラエティ番組から受けるイメージを完全に覆しての熱演あってのこと。
香里奈、椎名桔平らは思ったとおり。演出のおかげか、昨年一気に映画での露出があるも、新人としての拙さが残った香里奈もそのことをさほど感じないまま。
また、ホラー作品常連となりつつある、松本まりか(というか『ノロイ』の印象が強いだけだけれど)、清水組常連の藤貴子、諏訪太郎の活躍も嬉しい。
posted by やすゑ at 23:37| Comment(0) | TrackBack(0) | 映画 (ら) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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