2006年05月21日

『陽気なギャングが地球を回す』

陽気なギャング.jpg

『陽気なギャングが地球を回す』 ★★★☆☆

「何事も本気で楽しめるのは最初の10分」とは、某喫茶店マスターの言葉だが、本作も言葉そのままが当て嵌まる。
10分経ち、物語が一応の落ち着きを見せたら原作との差異、粗探しのスタートラインだ。そう思うことに自分自身嫌気がさすのではあるのだが…。
成瀬、響野、雪子、久遠…4人の陽気なギャングらが集結することとなった、とある銀行での事件。当時は加害者でなく、被害者。「俺たちならもっとうまくやれる」とばかり、(映像として)続けざま早々とスタイリッシュにおこなわれる銀行強盗。
原作で一気に読書に引きこんだ響野の演説は本作において一転、陽気なギャングたちの特殊能力紹介へと変わる絶妙な構成。
そのおかげで原作にある響野の、一貫しつつ脈略のない「記憶」に関する演説の魅力は損なわれるのだが、そのことも補って余りある、冒頭一気に淀みなく(多少の拙さはあるが)作品世界を紹介してしまう妙技には唸らされる。
併せ、成瀬、響野、雪子、久遠ら小説世界、二次元の世界の住人たちが一気三次元世界に映像として現出する興奮! 世界を回すは陽気なギャングたちで、今、我々の世界も彼らを中心に回っている。そのことを実感できる喜び。

ただ、そこまでである。我を忘れて世界に存分浸かれるのは。
映画と小説(原作)は別物。
過去に幾度となく、幾人もの人たちが使い、もはや使い古された言葉だ。ここは先人の言葉を尊び、以降、原作との差異から生じる不満をこぼすことはよそう。

本作における鍵は、どれだけ軽妙に、かつ洒脱に、ポップにコンパクトに軽快に一連の事件、及び付随する事象を淀みなく一気、語れるかどうかだ。
作中、放たれた銃弾がスローモーションで回転していく様をうっとりと眺めやり、銃弾に刻まれた文字にニヤッとさせられる場面があるが、それこそ本作に求められるもの、ある意味で凝縮。
ウェイトが恋話に流れることで、そこだけ他のテンションや時の流れと違い、緩やかにかつ落ち着いたものであることは気にならない。本作においては箸休めのようなもの。
だが、しかし。
なぜに心が躍らないのだろう。
彼らの起こす一連の騒動…四人の集結から始まり、裏切り、ワナ、演説、伏線、騙し合い、丁々発止な会話、どんでん返し、大円団と、構成の妙で一気見せなきゃいけないくだりが、あまりに雑然としているからに他ならない。一応はひとつひとつ仕掛けられたワナのような伏線を置いてはいるのだが、基本的に説明もしきれていないし、結実するものがあまりに杜撰。
例えば、車(グルーシェニカー)の扱い、あれほどに使えそうに登場しておいて、少なくとも、最後のラブパートのクライマックスの伏線となる銃弾ほどに役に立っていないのは解せないし、納得できない。
また、二転三転と主導権を奪い合い、果たして最後に誰が握るのかというクライマックスで怒涛のよう押し寄せる伏線の重なりはもう少し整然とはできなかったものか。あれでは観る側も、はたして誰が主導権を握るのかと予想する楽しみよりも、そのシーンに何が内包されているのか全て分かっている者(作り手)の傲慢、もしくは過信しか見えない。
杜撰な映像説明によって、最後、得られるカタルシスは求めようと望む半分にも満たない。
全てを見通せれていることからくる過信が全て。
話が入り組んでいるからこそ、語るべきものには念入りに取捨選択をし、構成していくべきであるし、それをコンパクトに、洒脱に見せようとするのは、次だ。

最後に。
「ロマンはどこだ」
うるさい。何度も何度も繰り返させるな。
posted by やすゑ at 21:23| Comment(0) | TrackBack(1) | 映画 (や) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年05月13日

『約三十の嘘』

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『約三十の嘘』 ★★★☆☆

彼らとともに居たいと思ったから…。

“約三十の嘘”。
“詐欺師”。
“騙し合い”。
“会話劇”ならお任せ、“大谷健太郎”。

そんなキーワードを聞くうちにこれはコンゲームの傑作になるのではないか?と勝手な想像を膨らませていたのだけれど、これが(特に意味を込めず)肩透かしだった。
本作に於いて大事なことは、あくまで会話劇だということ。
何を於いても会話劇だということ。
ただ、どう役割分担がされたかは分からないけれど「脚本家は多ければ多いほど駄作になる可能性が高い」という勝手な法則を持つ自分にとって、原作者、監督、売れっ子脚本家、とそれぞれ立派な看板を持った三人がクレジットに「脚本」として名を連ねているのはいただけない。いつものように大谷健太郎のみであればより純度の高い会話劇を楽しめたのじゃなかろうかと。

「嘘」がメインテーマだと思われる本作であるが、実のところ真実しか語られない。
画からも。台詞からも。
何か含むところのあると思われるシーン、台詞、ともに演出によるところが大きいと思われるが、とことん真実として扱われる。そこに含まれるものは、観る側が最も容易く思うところに終始しており、織りなされる裏切りも、複雑に絡み合うのではなく、ひとつひとつ順を追って解かれていく。
最終的に誰が勝者で誰が敗者か?
考えるのに意味がない。本作はミステリじゃない。真犯人もいない。
騙し合いがないわけじゃないが重きを持つことはない。
心に何かを潜め停滞した人間たちが、たったひとり最後の最後まで嘘をつかないままいる人間をフィルターに通し、前進を始める物語。

本作に於いて、ほぼ密室劇であることが良くも悪くもある。
今までの大谷作品と言えば、同じく会話劇主流とは言え、足枷はなく、場所は自由に行き来していた。画面上だけなく、画面に映らない部分でも。
だが本作では肝心の詐欺の部分はカットされ、結果ほぼ密室劇となる。
おそらくは外の世界を描くことでより各々キャラクターの個性を出すことができたかもしれない。しかし、諸刃の剣で彼らの詐欺師としての部分ははっきり認識され、彼らの会話を純粋に楽しめなくなる。会話劇としては決定的ダメージだと言える。
だからこそ、とことん枷を付けることに作品の方向は決した。
保険として、膨らみを持たせるため、脚本に渡辺あやの参加があったのではないかと推測できるが、逆にストイックなまでの会話劇が邪魔される結果となった気がする。

プラス、マイナス。これほど混在した作品も珍しい。
しかし、そこに居たいと思った。

若手の芸達者が揃ったこともある。
椎名桔平、中谷美紀、妻夫木聡、田辺誠一、多少騒がしすぎるきらいはあるが八嶋智人、演技自体は全く下手であるが伴杏里…代わりとなる人間はいる気もするが、一方で彼らがベストのような気も―確信に近い意味で―する。
posted by やすゑ at 23:04| Comment(0) | TrackBack(1) | 映画 (や) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年05月06日

『予感』

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『予感』 ★★★★☆

ポラリスのオオヤユウスケ、クラムボンの原田郁子、ハナレグミの永積タカシ、の三人からなるボーカルユニットohana。彼らのデビューシングル「予感」のPVを撮ることになった廣木隆一が、3人と「なら映画にしよう!」と盛り上がり製作されたのが本作。
上映時間51分。長編映画と言うには短い。けれど十分映画な仕上がりを見せたショート・ムービー。もちろん、中ではohana「予感」を一曲まるまる流さなくてはいけないし、物語は曲とリンクしなければならない。となると、物語る時間もテーマも制限される。
“予感”という言葉(もしくは曲)から端を発することになる本作は、曖昧なものを曖昧なものとして、しかし確実の心に残る物語を紡いできた廣木隆一の得意とするところ。そういえば、傑作『ガールフレンド』も“愛”“友情”“エロス”をテーマに、女性を主人公に据える、という縛りがあった。ならば、本作の監督に廣木隆一は間違いない。テーマは“予感”。問題は…時間だ。
ここで廣木隆一は思い切った手段を取った。
モノローグから、物語が立ち上がる段までばっさりと切り捨てた。
だから三本の線から成る物語はどれもすでに進行形だ。
これがohanaの歌う「予感」と実にマッチしている。歌詞で“突然の心変わり”“とまどったまま”とあるすぐあとに、“出会った”“恋におちていく”と、歌詞を全て追えばひとつの恋物語を語っていると取れるものが、こうして端的に上げると、新しい恋の始まりを予感させるものとしても受け取れる。過去を振り返るではない、日常にふと訪れた時間感覚のなさも感じられる。穿った読みをするなら時間軸を意図的に無視しているようにも思える。浮遊感が心地良い。
こうした立ち位置の不確かさがそのままに映画に反映される。
物語の始まりを意識し始めた途端に、これは佳境、もしくは転換期にすでに達していると気付く。
オオヤユウスケ演じる家庭教師・花田は、家庭教師先の姉妹の間で恋心を揺れ動かしている。原田郁子演じる工場勤めのハナは、自分の恋の芽吹きの可能性を横目に見ながら、自ら働く会社が傾き、哀しそうにする社長を見つめる。永積タカシ演じる漫画家・花太郎は、隣に住むヘンなオヤジと、美女との別れ話に聞き耳をたてる。
どれも、物語は動き始めている。彼らは動き始めている。彼らをそう導いた過程は語られない。語られないからこそ、無限に想像は広がる。それもまた、厳選し、端的に言葉を乗せ想像する余白を多く残す歌詞と近い。

それにしても、配役の妙。
観るまで忘れかけていたが(というか脇役の豪華さに目を奪われていた)、主演の三人は音楽のプロであっても演技のプロではない。演出する廣木隆一の巧みさもあるが、何より配役の妙で彼らを浮き上がらせない。
最もニュートラルな佇まいのオオヤユウスケの周りに、貫地谷しほり、河井青菜。家庭教師先で教える女子高生の妹(貫地谷しほり)、さらに姉(河井青菜)に恋心抱き抱かれるというおいしい役どころ。あのシチュエーションで貫地谷しほりに迫られるのは男にとっては拷問。反則。本作の柱とも言える彼のエピソードには、大森南朋も関わり磐石の態勢。
続いて、原田郁子。物語の地味さ、彼女の醸し出す穏やかさに合わせるよう、わりに地味な脇の配役であるが、ここでもっとも関わるのは社長を演じる大口広司。とはいえ、彼の場合、どちらかといえば寡黙に通すので少しでも彩りを施そうと会社同僚に山田キヌヲ(少しの出番ながら抜群の存在感!)、社長夫人(と言うほどに華やかでないけれど)に石井苗子。
最後に、永積タカシ。彼の個性にプラスアルファされたエキセントリックさ。与えられた役どころはコメディリリーフ。もちろん、彼にも恋の予感があり、そこに今井祐子が配されるが、今井祐子との、そして永積タカシとの相手役、三角関係の一角に竹中直人。作中からはみ出すぎりぎりのところで笑いを生む才能は彼の出演作から察しても間違いないところ。永積タカシとのやり取りは笑いと同時に和みを生み、ここばかりは空気も緩む。

進行形の彼らの日常、加速がさらにかかったところで物語の幕は閉じる。当然、その延長線上に何かまたあるのだろうが、それもまた観客の想像に委ねたまま。
ohanaのPVとしての役割を果たす歌の部分はエピローグの直前に挿入される。結局、PVとして端的にこの作品が流れる箇所がここであるよう、少なからず物語との差異を感じるが、こればかりはしょうがない。ただ、廣木隆一が作り出すことを得意とする空気の感じはそのままなのが嬉しい。
このあと、エピローグへと続くがこれはおまけみたいなもの。作中のキャラクターと、現実での彼らとの錯綜感。まあ、突然饒舌に、語りすぎている感は否めないけれど。
posted by やすゑ at 23:40| Comment(0) | TrackBack(0) | 映画 (や) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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