2006年05月31日

『嫌われ松子の一生』

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『嫌われ松子の一生』 ★★★★★

中島哲也、『下妻物語』公開時、「武器全てを使った」に近いことを言っていた。
しかし、まだ隠し持っていた。否。使う武器は基本的に変わらない。
中島哲也、渾身のフルスイング。ファイターズの小笠原ばりに。
いや。
まだ強く振れるのか? 彼が武器を惜しげなく使ってまだ二作目。
だとしたら恐ろしい。

幼少時代、厳格な父に物静かな母。時代をそのまま反映した家庭に生まれた松子。
厳格だけれど大好きな父は病弱な妹に構いっきり。なかなかに自分は構ってもらえない。このあたりは、主観的にそうであることを語るだけで客観的にどうであったかは語れない。得てして、父親からすればそうではなかったりもするのだが、ここでは言及されない。
(ちなみに幼少時代の松子を演じているのはドラマ「ちびまる子ちゃん」でまる子を演じた奥ノ矢佳奈。まる子の成長した姿でコメディアンを演じた木村カエラが本作ではそのまんま人気歌手なのが面白い)
以降、松子の主観性は半ばなくなり、彼女の存在は常に他人の口から語られる。もちろん、彼女の存在、主張は半端なく感じるのだけれど、思いがない。彼女の生き様がひとり歩きしていくのに対し、幼少の時分の松子がより主観的なのは意図したものなのだろう。だから、観る側も語り部たる、瑛太演じる笙と同様に彼女を深く知ろうと欲する。
終盤、彼女が再び主観性を取り戻す。彼女のリアルな存在がまったくないに関わらず。そこで彼女が接しているのも“家族”だ。

父親に構ってもらいたい。構ってもらいたい一心から生まれた健気かつ笑わずにいられない涙ぐましい努力。しかし報われない。
成人となった、中谷美紀演じる松子は中学校の教師となる。堅実な家庭に生まれた彼女はそのまま堅実な人生を送るかに見えた。
が。
ひとつの事件を機に人生は一変する。転落人生。それは加速度的にスピードを上げ、結局スピードを緩めないまま、人生を終える。
悲惨。と、ひと言に片付けることもできるかもしれない。“裏切り”、“満たされぬ愛”、“殺人”、“不倫”、“引きこもり”…悲惨と感じる記号は至るところにあるし、実際、端的に彼女の人生に接したらその想いは強く残るはず。
だが一方で、“生真面目な女教師”だったり、“ソープ嬢”だったり、“ヒモから離れられない依存女”だったり、“怪しげな隣人”だったり。それら記号を掬えばそれこそ作中ドラマに度々登場するありきたりな「2時間サスペンスドラマ」で、主役どころか脇役にもなれず、ワンシーン登場するだけの日の当たらない登場人物の顔も持ち合わせる。実のところスポットの当たらない人生。

しかし。
松子が幸せに見える。偽りなく。映像は偽りだらけなんだけれどね。
原色に彩られた毒々しいほどまでに華やかな映像の中、彼女の一途な思いに、満たされた顔に、錯覚を起こされているのは事実。だが、心の底で彼女を羨む自分が確実にいる。
「人の価値は人に何をしてもらったかじゃなくて、人に何をしてあげたかだよね」
よく言われる「愛は与えるもの?与えられるもの?」に近い。この問いに対する模範解答も建前も、厳然たる事実もどうでもいい。ただひとつ、彼女が与え続けたもの、与え続ける姿に、価値を感じることができる。与えてもらいたいと願いつついるばかりで、何も与えていない自分だからこそ。

前述した通り、記号だけ切り取れば、ひと言悲惨と言うのは簡単。彼女の人生を人づてに聞いたならばひと言、転落人生と片付けるかもしれない。
しかし、ノンストップに思慮浅く、間違った道を驀進し続ける彼女は間違いなく幸せだ。だから、ひと言には片付けられない。
本作…映画というある種の夢世界で彼女は輝き続ける。
確かに「ひとりは寂しい」と呟く姿にぎゅっと心が締め付けられることもある。
40歳を過ぎて引き篭もる姿に痛々しさもある。
そして、彼女の人生の幕引きとなる事件の真相には、切り裂かれるような痛みと、空虚な想いが伴う。これこそ救いようがない。
けれどそう思えるのは、彼女が少なくともそれまで幸せな人生を歩んでいたという証明にならないだろうか。幸せだったからこそ、最後の死に関わる事件とのギャップに、切り裂かれるような痛みを感じのじゃなかろうか。

加え、松子の甥たる笙の存在。
松子と直接的な接点はほとんどない。ないからこそ、きっかけとなる一枚の写真に当然のよう惹き込まれ自然と松子の人生を追うようなる。
無職。付き合っている彼女にも冗談のような理由で別れを告げられる。今時の若者。埋没した個性。ニュートラルな、無色透明な存在。自分を何色かに染めたいとは思う。でも思っていることすら気付いていないのは珍しいかも。だからこそ、個性しかない松子に無意識に、無性に惹かれる。
「(松子)おばさんのこと、神様だと思う」
これ以上の羨望…、いや想いがあるだろうか。観る側の立場を代弁する彼もまた心底、松子に憧れる。
もうひとりのキーマン、黒沢あすか演じるめぐみ。
彼女と、松子の戯れる姿がどれほど眩いことか。また、彼女の口から紡がれる松子の物語にどれほどの愛が溢れているか。男前っぷりには本当頭が下がる。笙も役得。これまた羨ましい。
松子と血の繋がりはあるが、生と死と隔たれた遥か遠い場所にいる笙。松子と血の繋がりはないが(文字通り)最も幸せな時期を共有し、強く精神的に結びついためぐみ。
めぐみに出会うことで、笙は精神的に松子に近付く。笙をフィルターにして観る側も松子に近付こうとする。

「“幸せ”なんて人それぞれ」
言い尽くされた陳腐な言葉も、松子に近付いてこそ重みがある。

蝶が舞い、踊り、月が喋り、天への続く階段を歩く。原色に彩られた世界はあたかもファンタジー世界かのよう。まあ、あまりに毒々しくあるので子供に向けられるようなファンタジーでないのは確かだろうけれど。
ただ、彼女の救いような華やかに人生を彩るのはこの映像に他ならない。ほんの小さな幸せに蝶が舞い、夕焼けを川べりから臨む彼女の後姿には哀愁と、仄かな愛らしさが同居する。結果裏切られることとなっても、そこに至る彼女の満ち足りた顔。
これが映画なんです。
どんな人生だろうと、人も羨むほどの人生へと(一時であろうと)転化させる魔法。
映像による嘘でもいい。でも、嘘こそが映画の持つ最大の武器。魔法。
嘘から生まれる真実だって、真実から生まれる真実以上にあったりするんです。

派手な映像に彩られるだけでない。半ばドキュメンタリーに近いトーンで彩られる、松子とめぐみの、友情を育むシークエンス。フラッシュバックで語られる松子の人生。彼女の幸せはこんなにもあったのだよ、と分かりやすく教えてくれる。
そして気付かされる。
彼女の求めた愛はいつでもあった。家族から。

ところで本作、明らかに『風とともに去りぬ』を意識。そういやスカーレットと松子って多分に被らない?
端的にいえば、アメリカのシットコム(本当、端的)、『ウエストサイド物語』などクラシックな趣がところどころ窺える。刑務所の場面は『ダンサー・イン・ザ・ダーク』。根底に『風とともに去りぬ』を置きつつ、新旧のミュージカル良いところ取り。
と言えるよう、音楽の使い方が抜群にうまい。時代を反映させた昭和歌謡から、BONNIE PINK、カエラ、AIら流行最前線の曲も見事溶け込ませるセンス。でも一番に心打たれるのはやはり「まげてのばして」なんだけれど。こればかりは作品の最も力強く確かなところに使われるのだからしょうがない。そして、最も力強く確かな存在である松子。を演じる中谷美紀。ジャンルを超えた芸達者が集まる中でまったく負けない恐るべき存在感。今さら自分が言うまでもなく、彼女の全てがまた注ぎ込まれている。
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2006年05月11日

『県庁の星』

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『県庁の星』 ★★★★☆

織田裕二の顔がシャープであるように、柴咲コウの顔がまたシャープであるように、両者の輪郭が明確であるように。ふたりとも、直線だけで似顔絵容易に描けそうであるし。

桂望実原作「県庁の星」をさして面白いと思わない。思わないが、小さな世界なり、現実に即した成長物語を内包したエンターテイメントとして成立していた。同時発生的に映像化の企画は進んでいたようだし、ひとつひとつパーツは十分あり、そこを基点に成長する可能性を秘めていた。スーパーの抱える裏トリビアや、行政と民間の分りやすい対立、弁当対決という勝負事を持ち込んでの持続…。
ただ、主人公の、映画では織田裕二が演じた“県庁さん”こと野村にしても、ひとつひとつのイベントにしても、物語の帰結にしても、いまひとつ掴みどころがなかったり、盛り上げるにしてもメリハリがなく上にはあるが低空飛行を続けていたり、ひと言で言えば曖昧、なのだ。

それを映画では、二極化にこだわった。
物語を引っ張るふたりに、恋心も芽生えよう人気のふたりを据える。織田裕二と柴咲コウ。お互い我の強い二人であり、行政と民間。エリートとパート。新人とベテラン。自我の強いこと以外、真逆の立場のふたりだから最初いがみ合うのは必然。もちろん、このキャスティングには、客を呼ぶ意図も大いにあっただろうが。原作の通り、若さが先立つ国家公務員と40歳代のベテランパートでは現実的であっても、普通に映像として惹かれないだろうし映えないだろうし。
加え、大まかに物語を捉えた場合、細かくエピソードごとに物語を区切った場合と、とにかく起と結だけを際立たせた。使用前、使用後としての野村の姿は然り。柴咲コウ演じるベテランパートの二宮アキもまた然り。
細かなエピソードで言えば、野村率いる多国籍軍Aチームと、おばちゃんパートたちから成るBチームとの弁当勝負。分りやすく(そして自然な形で)勝負を勃発させたかと思えば、そこに配された記号は、明らかな敗戦ムード、勝利に結びつくヒント、勝負を通しての団結。ここで、実際に県庁さんが何をしたかほとんど語られていない。あるのは、節々にある記号だけだ。
中身がないわけじゃない。そのため、逆に勝負としての意味合いよりもエピローグへ続く伏線としての意味合いが強くなった、野村とアキとのヒント探しがしっかり中を支えている。
作家性の強い映画であるよう、余白をふんだんに利用しているわけではない。その場合の余白は、自然な流れとして、渇望として、自分の想像で画を書こうとする観客に能動的な思考を促す余白だ。だが、本作は思考をまったくに促さない。そこにあるものが歴然としているわけでは当然ない。ないが、要らない。受動的にあって、まったくに流しても良い。監督がテレビ畑出身ということもあってか、受動的なメディアであるテレビを倣うかのように、物語は受動的であっても、全てを掴むよう計算尽くされている。
掴むべき輪郭が明確なのである。
そして掴むべき伏線も明確。

原作の一本筋な流れに比べると、それぞれの流れを並行して語ることにより、混線する可能性もあっただろう。決して単純な話でもなかったろう。
そうしたものを一度一緒くたにしてこれだけ明確な形として、構成し直したことは賞賛に値する。

全国公開される作品にこうした作品がかかるのは喜ばしいことだ。分りやすいフジテレビジョン印。こうした作品を入り口に日本映画ファンの裾野が広がる。
織田裕二は、分りやすく広く客を呼べる俳優という立ち位置となり、今回いかなる素材さえも自分のものにすることを証明し、ようやく新たな立ち位置で『卒業旅行』に追いついた。
posted by やすゑ at 23:29| Comment(1) | TrackBack(1) | 映画 (か) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年05月08日

『転がれ!たま子』

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『転がれ!たま子』 ★★★★☆

自分の中では『ビッグ・フィッシュ』に連なる作品だと思っているのだけれど…。
人を喜ばせようと、自らが楽しくあろうと作り上げた御伽噺の典型。
ただし、御伽噺とはいえ、ニートだ、人間的成長だ、と現実的側面、流行側面、映画的側面も含んだ形として成立しているのはしょうがない。いや、むしろたいしたことだ。
けれど、個人的には成長譚として捉えたくない。捉えない。成長はドラマを成立させるための付加要素としてあるのであって、たま子の愛すべき人生の一端でしかない。そこから何かを学ぶことはできる。感じることはできる。でも、そんなこといいじゃないか。『ビッグ・フィッシュ』で親子愛以前に、親父の大法螺話に心躍らせたように、たま子の愛すべき人生を覗き見た喜びに身を浸したい。
言ってしまえば、たま子を取り巻く、(たま子のいないところでの)騒動はさほど興味がない。面白おかしくしようという、もしくは物語を進めるための後押しの意図が透けているので興醒めしてしまう。

たま子のキャラクターが秀逸。
実際に間違いなくあり得ない(よね?)のだけれど、演じる山田麻衣子の愛らしさも相成って見ていて楽しくなってしまう。微細な表情で演技させようとするでなく、大胆に分かりやすく演技させているのが正解。冒頭、基本としてある不幸顔のせいで、職場の男性が言うよう「よく見れば美人だけれどブス」ってのが、そのまんま受け入れてしまえる。
キャラクターもそうだけれど、たま子の関わる多くにおいて振り切れているのが作品世界を御伽噺として成立させている要因。明らか。だからこそ、鉄兜も、甘食への、弟子入りへの熱い思いも、転機前の極端な閉鎖世界も、転機の予兆となる幻想も許せてしまう。逆に、割に現実的な面が見えたりすると「おや?」と思ってしまうのだけれど。
総じて、ひとつひとつは奇形でも作品としては納まりが良い。良いけれど、奇形は奇形のままであることを望む自分も、多分にいる。

ちなみに、たま子の小学生時代を演じるのは坂野真弥。『茶の味』の彼女だ。二枚目だね。
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2006年05月06日

『かえるのうた』

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『かえるのうた』 ★★★★☆

『たまもの』と続けざまに観たのだが、この手の作品本当無駄がない。無駄がある…とすれば、必要以上に予定回数挿入される濡れ場なのだけれどそれを否定しては本作も成り立たない。
女性ふたりの浮遊感のある日常。と捉えることもできるし。
女性同士の友情。と捉えることもできる。
自らの居場所(帰る場所)を探す女性ふたり、とタイトルにある「かえる」を、“帰る”と“蛙”、ダブルミーニングで捉えそこから作品のテーマをも捉えることもできる。
一緒くたにしたのが本作。といってももちろん複線が並行しているのでなく、同一線に複数の意味を持たせ語られるために、一見シンプルであるのに深い。深いけれど、それを強く主張したりしない。

漫画喫茶で読みたい本を取り合い喧嘩にまで発展…という最低の出会い方をする、向夏演じる朱美と、平沢里菜子演じるきょうこ。しかし、漫画喫茶から追い出された帰り道、不思議とふたりは意気投合。
裁縫工場で働く朱美。将来自分の作った服を着させることを夢見て、夫たる(実は彼が夫であることを観終わったあと知った)、吉岡睦雄演じる良男と暮らしている。意図的か、吉岡睦雄の演じる役の名前は『たまもの』と一緒。脱線ついでに彼の話をもう少しすると、『たまもの』ではいかにも自堕落でやる気のなさそうな郵便局員を素のように演じていたかと思えば、本作は一転、髪の毛を伸ばし一見しもてそうに、髪型や顔つきだけでなく所作までも変わっていたのには驚いた。
話を戻す。朱美と良男の夫婦生活。良男は平気でゴスロリの浮気相手、七瀬くるみ演じる渚を自宅に連れ込み、それを朱美に目撃されたとしてもどこ吹く風。
一方のきょうこ。昼夜逆転の生活を送り、夜は漫画喫茶で漫画を読むか、援助交際で身体を売り、昼に寝る生活。ただ、彼女にも夢があり、漫画好きが高じ漫画を描くようなり、それでいつか生活ができたらと思っている。

朱美ときょうこ、外見一見して両極端のふたり共通するのは、自らの居場所の不確かさ。手の届くぎりぎりの距離にある夢。ふたりが互いを必要とし、一方で反発しあうのは、単純に漫画好きとしてもそうであるし、不確かな今を確かめ合える同士としての親近感と、お互い鏡を見るような不快感が同居しているから。
不起用ながら幸せを求めるふたり。彼女たちは道を間違いながらも確実に距離を縮め合い、今をひたすら生きていく。
そこに悲しい現実が襲い、二人の仲は現実の距離的意味合いで裂かれる。

この時点まで、朱美の素性に余計な説明は加えられないし、彼女の夫である良男…彼が夫であることが最後まで知り得なかったよう、彼についてはさらに説明がない。彼女の女癖の悪さだけが記号として扱われ、またこの手のプログラムピクチャーに必要な、男優としての役割のみ特出される。女性ふたりの距離の縮め具合もただ漠然としていて確たるものとしては提示されない。
しかし、それらも朱美ときょうこ、ふたりが裂かれてから以降のくだり、驚異的な余白の使い方に比べれば驚きに値しないのだが。
あくまで寓話。
彼女たちの境遇、夢、そして今は記号として力を発揮すれば良い。長い道程を一時間程度の時間で語ることなど到底できない。だからこそ時間をも、現実をも超越し、踊る。万事、結果オーライ。全てを肯定するかのように。歌われるシンプルな「かえるのうた」(すごくいい)。全てを超越しての突き抜け具合。これこそ映画だと感じる最高の瞬間。

ところで、『たまもの』でも主人公たる女性の部屋がボウリング一色に彩られていたように、本作でも朱美の部屋が蛙グッズ一色に彩られている。蛙の気ぐるみを朱美ときょうこ、互いに着まわしてくれるサービス付き。これらがとことん可愛らしい。
posted by やすゑ at 23:35| Comment(15) | TrackBack(3) | 映画 (か) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

『かもめ食堂』

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『かもめ食堂』 ★★★★★

ヘルシンキの空気は思ったよりもずっと落ち着いたものだった。

デビュー作『バーバー吉野』では少年少女を、『恋は五・七・五!』では青春真っ只中の高校生、そして本作は中年女性を。意図的かどうか分からないが、徐々に切り取る対象の年齢を上げてきている。
この荻上直子という監督、一筋縄にいかない。
『バーバー吉野』は、子供は対象であったというだけで、そのことにさほど重きを持たない。基本的にアイデア勝負の、まだ拙さの残る、地方の寂れた都市を舞台にした寓話。『恋は五・七・五!』は一転して、『ウォーターボーイズ』『スウィングガールズ』『シコふんじゃった』などに連なる、マイナーな青春(スポーツなど)にスポットを当てる売れ線アイデアを着想とし、オフビートに描いた秀作(でも評価・興収ともに芳しくない)。ともに着想に重きをなし、作品自体は正直無難に仕上がっている。作家性の色濃く出るタイプではないし、どちらかというと脚本の軽妙さが目立つ。実際、「サボテン・ジャーニー」「やっぱり猫が好き2005」と、本作主演の小林聡美絡みのテレビドラマで脚本のみ参加している。
本作も、フィンランドで、中年女性三人、食堂を営む。という着想からして心惹かれるものがある。しかも、主演三人に小林聡美、片桐はいり、もたいまさこの個性派三人。原作は群ようこ。
そこで荻上直子は、かつての作品とは間違いなく違う、より落ち着きを持った、無駄のない、自らの作品を作り上げてきた。

寓話。
フィンランドで食堂を営むということを想像もしたことないことなので(当たり前か)、まだ見ぬ世界を覗き見る興奮は抑えられない。対し荻上直子、冷静に興奮を撫でつける大人の対応に驚き。無駄のない北欧の透き通るような青、もしくは白のイメージそのままのかもめ食堂の佇まいに、どこか(ムーミンの故郷だからというわけではないだろうが)妖精じみた佇まいの、小林聡美演じるサチエ。今まで見たどの彼女よりも美しい。どちらかと言うと騒がしいイメージであったのが、良い意味での裏切り。
誰もいない(厳密には誰も来ない)食堂の、ガランとした奥行きのある空間。満員となり賑わっている様を見て、ああこんなに狭かったのね、と気付かされる。

まだ誰も来ない食堂に、ひとりの日本かぶれのフィンランド人の若者が足を踏み入れることから話は動き出す。
食堂に、片桐はいり演じるミドリが加わり、もたいまさこ演じるマサコが加わる。この頃になるとひと癖もふた癖もある客たちも続々と登場し始める。思いつめた顔をし、店内を睨めつけるが店内へとは足を踏み入れない中年女性リーサ(クリア・マルクス)。典型的な、おしゃべり好きなフィンランド人中年女性三人組。これは万国共通。そして、美味しいコーヒーの入れ方を教えるだけの謎の中年男性マッティ。演じるのが、『過去のない男』のマルック・ペルトラ! あの、独特の空気を持ち、美味しいコーヒーを入れるコツを教える時の、彼の絶妙の台詞といったら!
サチエがミドリと仲を深めるきっかけとなるエピソードといい、マサコの超越した存在感といい(彼の存在が寓話性をより高めている気がする)、フィンランドのなんでもない風景といい、特にカフェテラスでサチエ、ミドリ、マサコ、リーサ四人が並んで座るだけの妙な可笑しさといい、日常でこそ輝く道端のエピソードを拾い集める中でも、マッティの存在は特筆すべきもの。
マサコが言うよう「人は変わっていく」のは間違いないのだけれど、それもごくごくゆったりと、と実感してしまうのは、サチエの最後の台詞が冒頭と何も変わっていないからだけではあるまい。

こうして賑わいを見せていく食堂ではあるが、多人数がスクリーン狭しと出てくるのでなく、どちらかというと限られた人間が節度持って出てくるので、いつまで経っても落ち着いた佇まいを損なわない。
加え、食堂を回す三人の背景が余計に語られないというのが、神秘性を増す。余白の使い方にも品の良さを感じる。
荻上直子、いつの間にこんなにうまくなったのだろう。

賑わいを見せるのは、食堂で出される食事の数々。
おにぎり。生姜焼き。とんかつ。卵焼き。鮭の網焼き。…。
誰もが語りたくなることだろうから、特にここで多くは語らないが、日本食の素晴らしさ感じること、食欲を刺激すること必死である。
posted by やすゑ at 21:52| Comment(0) | TrackBack(0) | 映画 (か) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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