2006年05月06日

『チェケラッチョ!!』

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『チェケラッチョ!!』 ★★☆☆☆

思い描いていたほどに酷くはなかったが、客(ターゲットとなる若年層)を呼ぶに安易な記号、発想が透け過ぎている。だから作中の彼らがいくら熱くなろうが、常に冷静な自分を認識できるため世界に浸かれる瞬間は訪れない。

今どきの若者を中心に据え、彼らの周りに起こる騒動を描きつつ、核心で爽やかな青春劇、純愛を描く。今時の若者を描くに分かりやすい記号を描き、同時に純朴な彼らを描くともなると、それこそ分かりやすく、振り切れれば『Deep Love』にでもなるのだろう。
しかしここで「沖縄」というフィルターが役に立つ。沖縄という風土が持つ緩やかさ、奔放さが“今どき”“純朴”と反発し会うことの多い記号を、ファンタジーに振り切れることなく成立させる。(『Deep Love』は明らかにファンタジー、もしくはコメディ)
そういう意味で、おそらく安直に浮かんだ“沖縄”という記号の選択は予想以上、もしくは予想通りの効果をもたらしている。が、市原隼人演じる透はじめとする沖縄弁に違和感が強い。主要キャスト4人がひとりとして沖縄弁を生来持っていないことを指摘するのではない。実際に正しい方言を使えているかどうかを指摘しているわけではない。もちろん、役者たるもの作品に合わせ自らを変貌させねばならないと思うが。
近い年代の若者を描き、方言が重要なキーワードとなった『きょうのできごと』『スウィングガールズ』に違和感…というより嫌悪感がなかったのとは対照的に、彼らの発する沖縄弁に嫌悪感がある。そこにある軽さ、からだ。

作品のターゲットとなる年代から求められるのは“格好良さ”だけ、他は何をやっても許される市原隼人についてはこれ以上語ることはしないが、彼らの幼馴染である、柄本佑演じる暁、平岡祐太演じる哲雄、井上真央演じる唯は好感。ただ、透の憧れの人、渚を演じた伊藤歩はミスキャスト。本作でなら本来彼女が演じるは、透たちの側でしょう。『きょうのできごと』での彼女がそうであったように。
と、それだけが原因ではないが、実際、透の渚への恋心は、この年代が持つ大人の女性への憧れ、の平面的なイメージ以上に力を持ち合わせない。
そもそも彼が、彼女への熱い想いを一手に曝け出す場としてあるクライマックスのライブに力がない。というよりも、本作のキーワードであるラップに想いが全くに乗っていない。音楽を中心に据えた作品で、作品と切り離してさえ武器となる音楽にこれほどに力がないのはラップというもの自体、言葉に重さが必要とされるからか。例えばこれがスタンダードであるなら語らずとも曲の持つ歴史が語ってくれるだろうから。
透自身の想いは当然の如く歌詞に乗っていない。彼の歌う歌自体に問題があるわけではない。彼のそれまでのふざけた様を見、その彼が曲に想いを乗せたにしては美辞麗句、彼のパーソナリティからは到底出しえない言葉が続くため。もっと下手くそでいい。乱雑でいい。格好悪くていい。が、彼に求められた“格好良さ”がここで枷となる。普段、能天気でありながら締めるときは締める。そう持って行きたいのは分かる。分かりすぎるがゆえに“ねじれ”も分かり易過ぎる。ラップに乗せた言葉に近付くには彼は能天気過ぎたし、彼を表現するには奇麗過ぎた。

ただし、徹底してターゲットとなる若年層に媚びた作りは感心したもの。主要キャストに加え、玉山鉄二、陣内孝則、ガレッジセール、KONISHIKIと、彼らにとって豪華と分かり易いキャストを集め、一方で、(ミスキャストではあるが)伊藤歩、平田満、松重豊、と実のあるキャストもそつなく配している。
監督、プロデューサーとテレビ畑にどっぷり浸かった者らしくマーケティングは完璧。実際に客は呼べているよう。ただ、あまりにも安直さが透けているだけ。このマーケティング力が今の日本映画の隆盛を作る一翼を担うことを否定はしないし、その中に佳作もある。がしかし、監督に個性でなく万能さが求められ作家性に頼ることない以上、せめて物語に頼った作品を仕上げてもらいたい。記号だけであとに何も残らないものは、要らない。
posted by やすゑ at 23:39| Comment(0) | TrackBack(0) | 映画 (た) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

『小さき勇者たち GAMERA』

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『小さき勇者たち GAMERA』 ★★★☆☆

「平成ガメラ三部作」より六年の月日を経て、ガメラが帰ってきた。
「平成ガメラ三部作」は、怪獣マニアだけでなく、普段怪獣映画を観ない者にも評価された、怪獣映画としては比肩なき傑作。しかし、ターゲットとして怪獣マニアは熱狂し、彼ら以外の大人をも絶賛した一方で、子供たちは切り捨てられた。子供たちの味方であるガメラが子供たちを、ある意味見捨てた。そして怪獣映画の金字塔を打ち立てた。このことは、映画版「クレヨンしんちゃん」にも重なる。
テレビからのおバカ路線を引き継ぐ形で当然スタートしたが、転機となったのが『クレヨンしんちゃん 嵐を呼ぶ モーレツ!オトナ帝国の逆襲』。昭和への郷愁を大いに誘ったこの作品は、まさに、昭和に幼少、青春時代を送った大人のための「クレヨンしんちゃん」。置いてきぼりを食らわされた子供たちを尻目に大人たちの評価を一気に高め、これまたアニメ映画を、アニメ映画ファンだけでなく、普段アニメ映画を観ない者にも目を向けさせた。監督の原惠一は続く、『クレヨンしんちゃん 嵐を呼ぶ アッパレ!戦国大合戦』で、その年をも代表しえるエンターテイメントの大傑作を生み出し頂点を極めた。しかし翌年、原惠一は事情により降板。水島努へとバトンタッチされた『クレヨンしんちゃん 嵐を呼ぶ 栄光のヤキニクロード』は十分に大人に鑑賞に堪えうる佳作ではあるが、少なくとも原惠一が描いたベクトルを一度リセットし、「クレヨンしんちゃん」を子供たちに還した。
本作…『小さき勇者たち GAMERA』の立ち位置を、「クレヨンしんちゃん」に重ねるなら『クレヨンしんちゃん 嵐を呼ぶ 栄光のヤキニクロード』である。
ガメラは還された。子供たちに。

本作におけるガメラは、そのままヌイグルミ。
「ガメラ」シリーズと人気を二分する「ゴジラ」シリーズにおけるミニラのように、クリッとした目玉が愛嬌たっぷり。富岡涼演じる透の見守る中、孵化したガメラ、子ガメ時代のガメラを演じたのが実在するカメ(ケヅメリクガメ)だけあって愛くるしいのは当然のことだが、成長してからの姿も愛くるしさはそのまま。そこに「平成ガメラ三部作」におけるガメラのような、凄みはない。
というよりも、本作におけるガメラは主役でさえもないのだけれど。タイトルでもサブタイトルに追いやられているよう、あくまで脇役。主役は、涼や、夏帆演じるヒロイン麻衣、涼の遊び仲間、そのほか子供たちである。
ガメラを育てるエピソードなど、そのまま、動物や昆虫などを飼おうとする子供たちの体験がそのまま反映されている。例えば、ガメラを飼うことを子供たちの秘密とするエピソード。大人たちを信じないわけではない。秘密を持つことへの喜び。そんな彼らに対し、大人は羨ましさと疎外感を持つ。また、漫画や彼らのする遊びに今の子供たちが象徴される。(一方で、性別の違う幼馴染同士の家が極端に隣接し、お互いの二階の窓越しに行き来や物の受け渡しができるという、むしろ懐古的な住風景が用意されてもいるのだが)
津田寛治演じる涼の父親や、寺島進、奥貫薫演じる、麻衣の両親たちも大人としての立ち位置を十分に認識させつつ、あくまで子供たちのやることを頭ごなしに否定しない。だからこそ、本作の敵(と言うと大袈裟か)と呼べるのは、頭でっかちで盲目的、典型的に融通の利かない大人の代表である、田口トモロヲ演じる一ツ木参事官や石丸謙二郎演じる雨宮教授かもしれない。

主人公たる子供たちは、現実的とは思えない手段で、大人と、ガメラが直接戦うこととなる海魔獣ジーダス。もちろん、手段を考えるならいくつもある中で現実的な手段も講じられたことだろう。が、あくまで子供たちの映画としての本作は、拾ったカメがガメラだったというおおよそあり得ない起点からのファンタジーを貫き通す。
ひとつに、不思議な力を持つ赤い石。ひとつに、子供たちだけに通うテレパシーのようなもの。彼らはこれらを拠り所、もしくは手段にして戦う。子供じみた、と断じてしまうのは簡単ではあるが、これはこれで良いのではないかと思う。ただ、あくまで“不思議な力”という言葉だけ頼っており、例えば赤い石にしてもどんな力を持つか、どのような過程を経て受け継がれていくのか、など多少の説明があってほしかった。説明不足にもほどがある。

そんな中ひとつ、明らかに子供映画の枠から飛び出ているのが、海魔獣ジーダス。
ギャオスの肉片を食べた爬虫類が変異巨大化して生まれたと説明されているが、ギャオスの面影はなく、むしろ恐竜。T-REXやヴェラキラプトル、トリケラトプス、ステゴザウルスなどメジャー恐竜の類ではなく、ディロフォサウルス。『ジュラシック・パーク』に登場した、脚色された形でのディロフォサウルス。エリマキトカゲに似た小型の肉食獣(実際には中型であったらしいが)と言えば分り易かろう。
さらに、口からは銛のよう、長く伸び武器となる舌を出すわ、おおよそグロテスク。個人的には血肉踊るフォルムであるが。(ただ、動き出すと着ぐるみらしい妙な愛らしさはある)
posted by やすゑ at 23:38| Comment(0) | TrackBack(2) | 映画 (た) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

『たまもの』

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『たまもの』 ★★★☆☆

盲目。狂気。無垢。
どの言葉が一番にしっくり来るのだろう。
ふとしたきっかけで知り合った郵便局員を、時に執拗に、時に盲目的に。別れる意味も分からない。心の隙間を何かと思う。自ら言葉を発することない無垢な女性がひたすらに追いかける純情。ストーカーと化してしまえば意味することの説明もひとことに簡単に済むのだけれど、監督のいまおかしんじと主演の林由美香はそうとはさせない。

ボウリング場で働く、林由美香演じる愛子。
彼女はただ請われるままにボウリング場の店長である男の性欲を受け止め、一方で、郵便局員である彼、吉岡睦雄演じる良男に尽くす。思いを弁当に託し毎日毎日彼の元に届ける。疎ましく思う彼の気持ちを立場を慮らない彼女を無神経とは呼べない。呼べない魅力が彼女にある。無垢、と呼ぶのが一番しっくりくるか。
濡れ場でのあえぎ声でしか言葉を発することのない彼女。コミカルな動きで心情を表現したかと思えば、何の冗談かと思える動きも。まったくに掴みどころのない彼女だが、一途に、愛らしい魅力に溢れる。だからこそ、もどかしい。
コケティッシュなのとは違う。冒頭の防波堤の上でひとり弁当を食す彼女の姿からして、妙に乾いたイメージがある。反面、30歳半ばとは思えぬ可愛らしさ。特に目を見広げた時の、白目がちな大きな目をくりくりさせるさまは子供のよう。
しかし、同時に狂気を感じるのも確か。この恋愛劇が辿り着く先から巻き戻しての結論ではない。大きな目が魅力的であることと同時に、目の下の隈が常に意識される。彼女の、ボウリング愛に満ちた部屋はコミカルかつ愛すべきものであるが、喋るボウリング球に象徴される妄想も同居する。
コミカルと狂気。現実と幻想。愛らしく妄執的。その狭間を行き来する。
全て超越したところで濡れ場の彼女。思いつめたような、痛切な姿が彼女の本当の姿なのだと。だが、その時だけにしか自らをさらけ出すことのできない彼女にまたもどかしさを募らせる。堂々巡り。

シンプルに分かりやすく魅力をふりまく、良男の同僚であり彼を誘惑する、華沢レモン演じる郁美。押しの強さは愛子に通じるがとにかく分かりやすい。愛子を捨て、郁美になびく気持ちは十分すぎるほどに分かる。だが、振れたとしてもまだ愛子に戻ろうとする反動力にあがなえない気持ちも分かる。また、戻る。

良くも悪くも、林由美香の魅力に全編彩られ縛られた一品。
posted by やすゑ at 23:26| Comment(0) | TrackBack(1) | 映画 (た) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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