2006年05月13日

『いま、会いにゆきます』

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『いま、会いにゆきます』 ★★★★★

ある雨の日。
一年前、亡くなった妻に似た女性が、梅雨はじめの雨の日、森の奥にある廃墟にひとり蹲っている。「自分が誰なのか」記憶を失ったままに。

これを見た妻を失った夫・秋穂巧と、忘れ形見である息子・祐司のふたりは、これ幸いと悪巧みを働かせます。
「あなたは私たちの妻(母)なのです」
見知らぬ人間の言葉に、記憶を失った彼女はただ「そうなんだ」と納得するしかない。状況証拠は揃っている。彼女はふたりに誘われるまま、彼らの家に誘われ、「決して家を出ぬように」と、半ば監禁状態に置かれます。
喜ぶふたり。
死んだ澪が還ってきた。
もちろん、死んだ人間が再び生前と変わらぬ姿で、しかも生者と何ら変わりなく存在することがあり得ようはずがないことくらいは知っています。まだ幼い祐司だったとしても。
彼女は、澪に似た別人。都合良く記憶を失っている。これ幸いとばかり洗脳し、自分たちの家族としてしまおう。せめて祐司の誕生日…初夏くらいまでは。

洗脳はうまく行きます。
彼女が、亡き妻とあまりにもそっくりなために、説得させるための材料はいくらでもある。
加え、彼らふたりの亡き妻への想いはいくら別人と分かっていたとしても、騙していると分かっていたとしても、はっきり認識しないまでに愛情(洗脳)を注ぐ。果たして彼らも自分たちがやっていることが悪しきことなのか、正しきことなのか、曖昧となり、次第に彼女を本当の澪として捉えていく。

巧は語る。
彼女の隣にいながら、決して交わることのなかった高校生活。
大学に入って初めての夏休み、理由を設けて「会いたい」と電話。
初デート。
そこでの、初々しく、温かいエピソード。
彼女を想っての別れ。
…再会…。

巧みの語る、亡き妻と共有した思い出を聞くうち、彼女は自然と巧に、“初めて”惹かれていく。自然と彼のキスを受け入れる。
「初めてのキスみたい」
当然です。初めてなんですから。

………とまあ、延々穿ったモノの見方で作品を観ていた部分もある。もちろん、こんな見方を全編、常にしていたのではなく、あくまで作品をそのままに受け止める時の余白を使って。
というのも、彼女の存在をそのまま「亡き妻(母)が雨の季節だけ還ってきた」と受け止めてしまうふたりに比べ、いくら説得力を持たせる、彼女が遺した絵本という材料があったとしても、彼女がさほどの違和感しかなく家族に受け入れられる様がどうしても信じられなかったからに他ならない。
彼女の存在以外の要素が、しっかり地に足ついていたからでもある。
彼女だけがふわりと浮いていた。彼ら家族にとってでなく、観る側にとって。

都合良すぎるかもしれない。
しかし、物語の解決編とも言えるエピローグで一応の解決を見る。
エピローグで先ず、物語が、恋愛の持つ多面性を見せる。先に語られた物語にはっきり分かる形で伏線が張られているので、これは予想の範囲だ。多少くどい気もするが、心地良い。
そんな気分になったところで、物語の鍵を握るエピソードがスッと挿入される。
彼女は、色々な意味で知っていた。
ここで穿った見方もできないこともないだろうが、心地良さを引っ張ってか素直に受け止められた。
彼女の、家族を想う気持ち、そして「いま、会いにゆきます」という言葉。
この瞬間幕であればどれほど心地良かったか。
画として近い『(ハル)』の“始まり”で終わる物語を想起させずにはいられない珠玉のラストを迎えられた気がする。その時間が、鑑賞後ずっと心に残った。
しかし、その後も蛇足に近い(しかしプロローグからすると必然の)エピローグが続く。否定する気はない。これはこれで、彼女だけでない家族の物語としての幕を得たからだ。親切に、優しく丁寧に。
ただ、欲を言えば潔さを求めたかったというだけの話。
posted by やすゑ at 22:57| Comment(0) | TrackBack(0) | 映画 (あ) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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