2006年05月08日

『ベロニカは死ぬことにした』

ベロニカ.jpg

『ベロニカは死ぬことにした』 ★★★☆☆

ベロニカ…真木よう子演じるトワと同様に「なんでもあるけれど、なんにもない」、何でもなく、変わり映えしない日常に絶望して死を選択する人はいる。芥川龍之介の遺書にあった「将来に対する唯ぼんやりとした不安」も、本作とは至る過程は異にするにせよ類するものであろうし、死を選択しないまでも死を考える人間ともなればさらに数は増えるはず。生きる目的も見出せずに生きることは苦痛でしかない。
だから彼女は死を選んだ。
冒頭、彼女の仕事での変わり映えしない日々、プライベートでの羽目の外しようと、二面性を端的に描くことで、日常に飽き、生きる目的を求め、求めた末に彷徨い失望していることを象徴的に知ることができる。ただ、それだけであればよくある話ではある。
彼女にはかつてピアノがあった。
彼女が自殺に失敗し、放り込まれたサナトリウムの中で、成長と(良い意味でも悪い意味でもの)退化を遂げる過程で明かされる。
彼女の場合、生きる目的がなかったわけではない。迷うことなどあり得ないくらい厳然と、あった。日々、成長を実感できる彩り豊かな世界があった。あったが、それしか見ていなかった。見えなかった。だからこそ、それを失った時に彼女が直面する世界は、ただ単純で変わり映えのしないモノクロの世界でしかなかった。
院長が話す「成長する石」の話が彼女にどれだけの影響を与えたか。青天の霹靂に違いなかったはずだ。見えなかったことが見えた。と同時に、他者から「それで良い」のだと認められた喜びを噛み締めたはずだ。彼女はピアノを通して、他者…母親からの評価を得ており、同時に失ったことに絶望を感じていたから。程度の差はあれども、人は他者からの評価で自らの位置を確かめるところがある。

サナトリウムでの彼女は、自分を肯定することを学ぶ。
サナトリウムの住人たちは、患者、医師、看護士問わず境がない。患者よりもむしろそれをサポートする立場の人間のほうが異常と思えることは多いし、演出として意図的にでもあるのだろう。
結局、異常と正常の境目など曖昧と知るように、自ら見知り作り上げた世界の線引きの曖昧さを知る。線引きされた世界からの解放は、変化へと繋がる。変化は成長へと繋がる。
それはサナトリウムの住人たちにも言えること。
彼女の存在がまた彼らを変えた。
風吹ジュン演じる、パニック症候群を患い全てを失い歩むことを止めてしまった元弁護士は、再び歩みだす。
中島朋子演じる、夢の世界に浸ろうとする主婦は、現実と直面することを決意する。
そして。イ・ワン演じる、夢を追いかけ、否定され、言葉を失い、自らの殻に閉じこもる道を選んだ青年をも変えていく。

正直言えば、物語の余白部分があまりに明らかなために、自分に近付けることが感覚的にあまりできない。できないが、意識的になら理解できる。
物語自体、登場する人間たちは感覚に依るところが多いが、観る側としてそのまま受け入れられない自分がいる。それが作品としての完成度によるものか、自らの殻によるものなのか…。
posted by やすゑ at 22:10| Comment(0) | TrackBack(0) | 映画 (は) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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