2006年05月21日

『明日の記憶』

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『明日の記憶』 ★★★★☆

下手なホラー映画…否、上質なホラー映画よりも怖い。
今ある和製ホラーの隆盛の原因を探るに日常との直結は欠かせない。布団に入ってみたら…。シャワーを浴びていたら…。彼女の向こうに薄ぼんやりと見える存在しない人の影…。エレベーターに乗って背後に存在を感じたら…。畳に残る消えないシミ…。
そういう意味で、本作はまさに日常とがっちり直結。今ある日常の先に、そのまま本作と近い出来事が突如挿入される日が来る、かもしれない。そう考えた時の恐怖といったら。

認知症。アルツハイマー病。
当人からすれば、直面した時の感情を表すに一番近い言葉が“恐れ”(日常生活を普通に送れなくなることよりも、数十年培った記憶の消失に対する恐れ)であるなら、身近な人間からすれば“哀しみ”か。

認知症と診断された人間は、現代の医療技術では、進行を緩やかにすることはできても止めることはできない。徐々にフェードアウトしていく記憶。
対し、身近に寄り添う人間は?
先の人生がある。あるからこそ、本作における、認知症と診断された夫に寄り添う樋口可南子演じる妻・佐伯枝実子のよう、足を止め、その者に全面的に向き合うことができない。自らの人生は自らの足で歩まなくてはいけない。生きるために。ただ生きるためだけにも。
その中で誇大する存在…認知症の夫。一方、彼の記憶からは自分の存在が消されていく。
親しければ親しいほどに、自らの中に占める割合と反比例する形で自らを忘れられてしまう哀しみ。それは恐怖とも薄皮一枚のところにある。

本作における枝実子のよう、凛として、その者に接する自信は私にない。もちろん、世間体や自尊心が覚悟を作ることがあるかもしれないが、最後に頼りになるのはその者自身の強さ。慣れ、もあるかもしれない。人は苦難に直面、乗り越えることで成長する。

一方で、渡辺謙演じる夫・佐伯雅行の、直面時の弱さ。それでも進んだ先の強さ。というよりも自由。
これは、ひとりの人間として見た場合の精神的な脆弱さを言うのではない。自らの未来を失い、ある意味でそこで途絶えてしまったと感じることからくる恐怖。先に進むことを許されなくなった中で先に進むことしか許されない無常。
彼の歩む姿が、ただ感動を、共感を呼ぶのはそれが自らの姿だからだ。よほど達観した人でなければ、認知症と宣告された時、心の目を失う。どんな強気な人間あろうとも、むしろ強気であるほど弱い。ただ、怯えるだけでない。
人に接する時に生じる仄かな優しさに心揺れる。だから観る者も、香川照之演じる、クライアントの宣伝課長のある意味で容赦ないひと言に、水川あさみ、袴田吉彦ら演じる雅行の部下たちとの別れのひとコマに、揺れる。
また見えなくなることで、今まで当然としてあったものが見えなくなり、取り乱す。結果、彼は『もののけ姫』でも『カナリア』でも語られたシンプルかつ力強いひと言に拠りどころを見つける。結局、それしかないのだ。全てを剥ぎ取られ、それでも自分を肯定する言葉は。

認知症進行の過程の描き方が見事。
原作はあまりに飄々と、どちらかと言えば落ち着いた語りで人生の落日に臨む姿を描ききったが、映画は、映像は雄弁だ。
また、気を衒うことしか頭にないと思っていた堤幸彦の成長も忘れてはいけない。まさか彼の監督する作品で、星4つ以上付ける日が来るとは思いもよらなかった。
TV界の寵児として、またTVという枠の中では重宝がられた異端児も、映画という枠の中では暴走に歯止めが利かず、映画を自由と思うがゆえに作品世界を崩壊するまでに自由を謳歌し、自制を知らなかった。一方で、TVとまったく同じことをして新鮮味がまるでなく、映画監督として自らの立ち位置を見付けられないでいた。それは最新作『サイレン』でも顕著で、全て自らの頭の中で完結してしまっている感があった。(ただまだ頭の中で完結している分は良く、『ケイゾク』『恋愛寫眞』ではまったく完結できていなかった) 結果、彼の作品は自慰行為でしかなかった。
しかし本作はどうか。
渡辺謙の存在が作品内外で大きいのは確かだ。
彼の存在により、作品は大きくはぶれないし、堤幸彦も自粛を余儀なくされる。ある意味で、渡辺謙に身を委ねた。
その上で、主人公たる雅行が記憶を失い、遡っていく過程、進行する過程の中での描写の中で気を衒うのではなく、溶け込むように幻想的に思える描写が、認知症というものを浮き上がらせる。他者でなく、雅行自らの視線を強く印象付ける。
抑えられ、その中で自らを生かす形で、本作はまさに生きた。
観る者の“記憶に残る”作品に成り得た。
posted by やすゑ at 21:24| Comment(1) | TrackBack(2) | 映画 (あ) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

『陽気なギャングが地球を回す』

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『陽気なギャングが地球を回す』 ★★★☆☆

「何事も本気で楽しめるのは最初の10分」とは、某喫茶店マスターの言葉だが、本作も言葉そのままが当て嵌まる。
10分経ち、物語が一応の落ち着きを見せたら原作との差異、粗探しのスタートラインだ。そう思うことに自分自身嫌気がさすのではあるのだが…。
成瀬、響野、雪子、久遠…4人の陽気なギャングらが集結することとなった、とある銀行での事件。当時は加害者でなく、被害者。「俺たちならもっとうまくやれる」とばかり、(映像として)続けざま早々とスタイリッシュにおこなわれる銀行強盗。
原作で一気に読書に引きこんだ響野の演説は本作において一転、陽気なギャングたちの特殊能力紹介へと変わる絶妙な構成。
そのおかげで原作にある響野の、一貫しつつ脈略のない「記憶」に関する演説の魅力は損なわれるのだが、そのことも補って余りある、冒頭一気に淀みなく(多少の拙さはあるが)作品世界を紹介してしまう妙技には唸らされる。
併せ、成瀬、響野、雪子、久遠ら小説世界、二次元の世界の住人たちが一気三次元世界に映像として現出する興奮! 世界を回すは陽気なギャングたちで、今、我々の世界も彼らを中心に回っている。そのことを実感できる喜び。

ただ、そこまでである。我を忘れて世界に存分浸かれるのは。
映画と小説(原作)は別物。
過去に幾度となく、幾人もの人たちが使い、もはや使い古された言葉だ。ここは先人の言葉を尊び、以降、原作との差異から生じる不満をこぼすことはよそう。

本作における鍵は、どれだけ軽妙に、かつ洒脱に、ポップにコンパクトに軽快に一連の事件、及び付随する事象を淀みなく一気、語れるかどうかだ。
作中、放たれた銃弾がスローモーションで回転していく様をうっとりと眺めやり、銃弾に刻まれた文字にニヤッとさせられる場面があるが、それこそ本作に求められるもの、ある意味で凝縮。
ウェイトが恋話に流れることで、そこだけ他のテンションや時の流れと違い、緩やかにかつ落ち着いたものであることは気にならない。本作においては箸休めのようなもの。
だが、しかし。
なぜに心が躍らないのだろう。
彼らの起こす一連の騒動…四人の集結から始まり、裏切り、ワナ、演説、伏線、騙し合い、丁々発止な会話、どんでん返し、大円団と、構成の妙で一気見せなきゃいけないくだりが、あまりに雑然としているからに他ならない。一応はひとつひとつ仕掛けられたワナのような伏線を置いてはいるのだが、基本的に説明もしきれていないし、結実するものがあまりに杜撰。
例えば、車(グルーシェニカー)の扱い、あれほどに使えそうに登場しておいて、少なくとも、最後のラブパートのクライマックスの伏線となる銃弾ほどに役に立っていないのは解せないし、納得できない。
また、二転三転と主導権を奪い合い、果たして最後に誰が握るのかというクライマックスで怒涛のよう押し寄せる伏線の重なりはもう少し整然とはできなかったものか。あれでは観る側も、はたして誰が主導権を握るのかと予想する楽しみよりも、そのシーンに何が内包されているのか全て分かっている者(作り手)の傲慢、もしくは過信しか見えない。
杜撰な映像説明によって、最後、得られるカタルシスは求めようと望む半分にも満たない。
全てを見通せれていることからくる過信が全て。
話が入り組んでいるからこそ、語るべきものには念入りに取捨選択をし、構成していくべきであるし、それをコンパクトに、洒脱に見せようとするのは、次だ。

最後に。
「ロマンはどこだ」
うるさい。何度も何度も繰り返させるな。
posted by やすゑ at 21:23| Comment(0) | TrackBack(1) | 映画 (や) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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