2006年05月13日

『約三十の嘘』

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『約三十の嘘』 ★★★☆☆

彼らとともに居たいと思ったから…。

“約三十の嘘”。
“詐欺師”。
“騙し合い”。
“会話劇”ならお任せ、“大谷健太郎”。

そんなキーワードを聞くうちにこれはコンゲームの傑作になるのではないか?と勝手な想像を膨らませていたのだけれど、これが(特に意味を込めず)肩透かしだった。
本作に於いて大事なことは、あくまで会話劇だということ。
何を於いても会話劇だということ。
ただ、どう役割分担がされたかは分からないけれど「脚本家は多ければ多いほど駄作になる可能性が高い」という勝手な法則を持つ自分にとって、原作者、監督、売れっ子脚本家、とそれぞれ立派な看板を持った三人がクレジットに「脚本」として名を連ねているのはいただけない。いつものように大谷健太郎のみであればより純度の高い会話劇を楽しめたのじゃなかろうかと。

「嘘」がメインテーマだと思われる本作であるが、実のところ真実しか語られない。
画からも。台詞からも。
何か含むところのあると思われるシーン、台詞、ともに演出によるところが大きいと思われるが、とことん真実として扱われる。そこに含まれるものは、観る側が最も容易く思うところに終始しており、織りなされる裏切りも、複雑に絡み合うのではなく、ひとつひとつ順を追って解かれていく。
最終的に誰が勝者で誰が敗者か?
考えるのに意味がない。本作はミステリじゃない。真犯人もいない。
騙し合いがないわけじゃないが重きを持つことはない。
心に何かを潜め停滞した人間たちが、たったひとり最後の最後まで嘘をつかないままいる人間をフィルターに通し、前進を始める物語。

本作に於いて、ほぼ密室劇であることが良くも悪くもある。
今までの大谷作品と言えば、同じく会話劇主流とは言え、足枷はなく、場所は自由に行き来していた。画面上だけなく、画面に映らない部分でも。
だが本作では肝心の詐欺の部分はカットされ、結果ほぼ密室劇となる。
おそらくは外の世界を描くことでより各々キャラクターの個性を出すことができたかもしれない。しかし、諸刃の剣で彼らの詐欺師としての部分ははっきり認識され、彼らの会話を純粋に楽しめなくなる。会話劇としては決定的ダメージだと言える。
だからこそ、とことん枷を付けることに作品の方向は決した。
保険として、膨らみを持たせるため、脚本に渡辺あやの参加があったのではないかと推測できるが、逆にストイックなまでの会話劇が邪魔される結果となった気がする。

プラス、マイナス。これほど混在した作品も珍しい。
しかし、そこに居たいと思った。

若手の芸達者が揃ったこともある。
椎名桔平、中谷美紀、妻夫木聡、田辺誠一、多少騒がしすぎるきらいはあるが八嶋智人、演技自体は全く下手であるが伴杏里…代わりとなる人間はいる気もするが、一方で彼らがベストのような気も―確信に近い意味で―する。
posted by やすゑ at 23:04| Comment(0) | TrackBack(1) | 映画 (や) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

『いま、会いにゆきます』

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『いま、会いにゆきます』 ★★★★★

ある雨の日。
一年前、亡くなった妻に似た女性が、梅雨はじめの雨の日、森の奥にある廃墟にひとり蹲っている。「自分が誰なのか」記憶を失ったままに。

これを見た妻を失った夫・秋穂巧と、忘れ形見である息子・祐司のふたりは、これ幸いと悪巧みを働かせます。
「あなたは私たちの妻(母)なのです」
見知らぬ人間の言葉に、記憶を失った彼女はただ「そうなんだ」と納得するしかない。状況証拠は揃っている。彼女はふたりに誘われるまま、彼らの家に誘われ、「決して家を出ぬように」と、半ば監禁状態に置かれます。
喜ぶふたり。
死んだ澪が還ってきた。
もちろん、死んだ人間が再び生前と変わらぬ姿で、しかも生者と何ら変わりなく存在することがあり得ようはずがないことくらいは知っています。まだ幼い祐司だったとしても。
彼女は、澪に似た別人。都合良く記憶を失っている。これ幸いとばかり洗脳し、自分たちの家族としてしまおう。せめて祐司の誕生日…初夏くらいまでは。

洗脳はうまく行きます。
彼女が、亡き妻とあまりにもそっくりなために、説得させるための材料はいくらでもある。
加え、彼らふたりの亡き妻への想いはいくら別人と分かっていたとしても、騙していると分かっていたとしても、はっきり認識しないまでに愛情(洗脳)を注ぐ。果たして彼らも自分たちがやっていることが悪しきことなのか、正しきことなのか、曖昧となり、次第に彼女を本当の澪として捉えていく。

巧は語る。
彼女の隣にいながら、決して交わることのなかった高校生活。
大学に入って初めての夏休み、理由を設けて「会いたい」と電話。
初デート。
そこでの、初々しく、温かいエピソード。
彼女を想っての別れ。
…再会…。

巧みの語る、亡き妻と共有した思い出を聞くうち、彼女は自然と巧に、“初めて”惹かれていく。自然と彼のキスを受け入れる。
「初めてのキスみたい」
当然です。初めてなんですから。

………とまあ、延々穿ったモノの見方で作品を観ていた部分もある。もちろん、こんな見方を全編、常にしていたのではなく、あくまで作品をそのままに受け止める時の余白を使って。
というのも、彼女の存在をそのまま「亡き妻(母)が雨の季節だけ還ってきた」と受け止めてしまうふたりに比べ、いくら説得力を持たせる、彼女が遺した絵本という材料があったとしても、彼女がさほどの違和感しかなく家族に受け入れられる様がどうしても信じられなかったからに他ならない。
彼女の存在以外の要素が、しっかり地に足ついていたからでもある。
彼女だけがふわりと浮いていた。彼ら家族にとってでなく、観る側にとって。

都合良すぎるかもしれない。
しかし、物語の解決編とも言えるエピローグで一応の解決を見る。
エピローグで先ず、物語が、恋愛の持つ多面性を見せる。先に語られた物語にはっきり分かる形で伏線が張られているので、これは予想の範囲だ。多少くどい気もするが、心地良い。
そんな気分になったところで、物語の鍵を握るエピソードがスッと挿入される。
彼女は、色々な意味で知っていた。
ここで穿った見方もできないこともないだろうが、心地良さを引っ張ってか素直に受け止められた。
彼女の、家族を想う気持ち、そして「いま、会いにゆきます」という言葉。
この瞬間幕であればどれほど心地良かったか。
画として近い『(ハル)』の“始まり”で終わる物語を想起させずにはいられない珠玉のラストを迎えられた気がする。その時間が、鑑賞後ずっと心に残った。
しかし、その後も蛇足に近い(しかしプロローグからすると必然の)エピローグが続く。否定する気はない。これはこれで、彼女だけでない家族の物語としての幕を得たからだ。親切に、優しく丁寧に。
ただ、欲を言えば潔さを求めたかったというだけの話。
posted by やすゑ at 22:57| Comment(0) | TrackBack(0) | 映画 (あ) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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