2006年05月11日

『燃ゆるとき』

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『燃ゆるとき』 ★★★☆☆

団塊の世代からすればそりゃ憧れるわな、というサラリーマンを中井貴一が、そのままのイメージで熱演。どれだけ叩かれようと、どれだけ苦難に立たされようと、どれだけみっともなかろうと、自分の信念を、自らの会社を、自ら信じたものを、信じ通す。どんな状況であろうと、中井貴一演じる企業戦士・川森は彼自身の髪型のようにまったく崩れないので半ばフィクションのよう。ただ、フィクションで良いと思う。中途半端に現実的であればあるほどに、それこそ周りを見渡せばいくらでも見つけることができるだろうから。

ボリュームある原作を、それこそ映画で取り上げられるカップ麺の製造よろしく、シンプルに無駄を排除した。コストダウンを目指すよう、無駄を削ぎ落とし、世界に挑む日本企業の現状を十分に見せ付けた上で、個人の物語として成立させる離れ業。多少、研磨されすぎて味気ない部分もあるが、それを補うのが個性豊かな役者たち。彼らもまた、川森同様に、苦難に多々され苦渋の選択を迫られようが、仲間を信じることを止めようとしない。
反発やぶつかり合い、一時的な諦念はあろうとそれは常に人を信じていく過程のひとつに過ぎない。馴れ合いとは違う、日本企業の家族的な繋がりを色濃く反映させている。
それは日本人同士の繋がりだけに収まらない。
とことん。徹底して見せつけられる。
もっとも顕著で分りやすく、裏表がないのが、川森たちがコストダウンの中でも品質を落としてはいけないと、麺を揚げるオイルにこだわる件。ラテン人気質溢れるアミーゴオイル社長と打ち解ける場面など、昔の日本映画に、近い場面をいくらでも見つけることができるだろう。彼ほど単純にはいかないが、川森のマネージャーである、サマンサ・ヒーリー演じるキャサリン、スティーヴン・クライヴス演じる会社の顧問弁護士ライアルなどもその渦に巻き込まれるわけだが、これはもう必然というより、世界を舞台にした現実社会の夢物語を構築するに欠かせないパーツとしての役割。キャサリンのエピソードなど全てを繋げる位置まで昇華されている。
また、伊武雅刀、長谷川初範、中村育二、木下ほうか、鹿賀丈史、津川雅彦、…これだけの曲者たちが一致団結する姿を見るだけでも希少的価値があるってもんじゃないか。
posted by やすゑ at 23:31| Comment(1) | TrackBack(0) | 映画 (ま) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

『県庁の星』

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『県庁の星』 ★★★★☆

織田裕二の顔がシャープであるように、柴咲コウの顔がまたシャープであるように、両者の輪郭が明確であるように。ふたりとも、直線だけで似顔絵容易に描けそうであるし。

桂望実原作「県庁の星」をさして面白いと思わない。思わないが、小さな世界なり、現実に即した成長物語を内包したエンターテイメントとして成立していた。同時発生的に映像化の企画は進んでいたようだし、ひとつひとつパーツは十分あり、そこを基点に成長する可能性を秘めていた。スーパーの抱える裏トリビアや、行政と民間の分りやすい対立、弁当対決という勝負事を持ち込んでの持続…。
ただ、主人公の、映画では織田裕二が演じた“県庁さん”こと野村にしても、ひとつひとつのイベントにしても、物語の帰結にしても、いまひとつ掴みどころがなかったり、盛り上げるにしてもメリハリがなく上にはあるが低空飛行を続けていたり、ひと言で言えば曖昧、なのだ。

それを映画では、二極化にこだわった。
物語を引っ張るふたりに、恋心も芽生えよう人気のふたりを据える。織田裕二と柴咲コウ。お互い我の強い二人であり、行政と民間。エリートとパート。新人とベテラン。自我の強いこと以外、真逆の立場のふたりだから最初いがみ合うのは必然。もちろん、このキャスティングには、客を呼ぶ意図も大いにあっただろうが。原作の通り、若さが先立つ国家公務員と40歳代のベテランパートでは現実的であっても、普通に映像として惹かれないだろうし映えないだろうし。
加え、大まかに物語を捉えた場合、細かくエピソードごとに物語を区切った場合と、とにかく起と結だけを際立たせた。使用前、使用後としての野村の姿は然り。柴咲コウ演じるベテランパートの二宮アキもまた然り。
細かなエピソードで言えば、野村率いる多国籍軍Aチームと、おばちゃんパートたちから成るBチームとの弁当勝負。分りやすく(そして自然な形で)勝負を勃発させたかと思えば、そこに配された記号は、明らかな敗戦ムード、勝利に結びつくヒント、勝負を通しての団結。ここで、実際に県庁さんが何をしたかほとんど語られていない。あるのは、節々にある記号だけだ。
中身がないわけじゃない。そのため、逆に勝負としての意味合いよりもエピローグへ続く伏線としての意味合いが強くなった、野村とアキとのヒント探しがしっかり中を支えている。
作家性の強い映画であるよう、余白をふんだんに利用しているわけではない。その場合の余白は、自然な流れとして、渇望として、自分の想像で画を書こうとする観客に能動的な思考を促す余白だ。だが、本作は思考をまったくに促さない。そこにあるものが歴然としているわけでは当然ない。ないが、要らない。受動的にあって、まったくに流しても良い。監督がテレビ畑出身ということもあってか、受動的なメディアであるテレビを倣うかのように、物語は受動的であっても、全てを掴むよう計算尽くされている。
掴むべき輪郭が明確なのである。
そして掴むべき伏線も明確。

原作の一本筋な流れに比べると、それぞれの流れを並行して語ることにより、混線する可能性もあっただろう。決して単純な話でもなかったろう。
そうしたものを一度一緒くたにしてこれだけ明確な形として、構成し直したことは賞賛に値する。

全国公開される作品にこうした作品がかかるのは喜ばしいことだ。分りやすいフジテレビジョン印。こうした作品を入り口に日本映画ファンの裾野が広がる。
織田裕二は、分りやすく広く客を呼べる俳優という立ち位置となり、今回いかなる素材さえも自分のものにすることを証明し、ようやく新たな立ち位置で『卒業旅行』に追いついた。
posted by やすゑ at 23:29| Comment(1) | TrackBack(1) | 映画 (か) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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