2006年05月08日

『転がれ!たま子』

たま子.jpg

『転がれ!たま子』 ★★★★☆

自分の中では『ビッグ・フィッシュ』に連なる作品だと思っているのだけれど…。
人を喜ばせようと、自らが楽しくあろうと作り上げた御伽噺の典型。
ただし、御伽噺とはいえ、ニートだ、人間的成長だ、と現実的側面、流行側面、映画的側面も含んだ形として成立しているのはしょうがない。いや、むしろたいしたことだ。
けれど、個人的には成長譚として捉えたくない。捉えない。成長はドラマを成立させるための付加要素としてあるのであって、たま子の愛すべき人生の一端でしかない。そこから何かを学ぶことはできる。感じることはできる。でも、そんなこといいじゃないか。『ビッグ・フィッシュ』で親子愛以前に、親父の大法螺話に心躍らせたように、たま子の愛すべき人生を覗き見た喜びに身を浸したい。
言ってしまえば、たま子を取り巻く、(たま子のいないところでの)騒動はさほど興味がない。面白おかしくしようという、もしくは物語を進めるための後押しの意図が透けているので興醒めしてしまう。

たま子のキャラクターが秀逸。
実際に間違いなくあり得ない(よね?)のだけれど、演じる山田麻衣子の愛らしさも相成って見ていて楽しくなってしまう。微細な表情で演技させようとするでなく、大胆に分かりやすく演技させているのが正解。冒頭、基本としてある不幸顔のせいで、職場の男性が言うよう「よく見れば美人だけれどブス」ってのが、そのまんま受け入れてしまえる。
キャラクターもそうだけれど、たま子の関わる多くにおいて振り切れているのが作品世界を御伽噺として成立させている要因。明らか。だからこそ、鉄兜も、甘食への、弟子入りへの熱い思いも、転機前の極端な閉鎖世界も、転機の予兆となる幻想も許せてしまう。逆に、割に現実的な面が見えたりすると「おや?」と思ってしまうのだけれど。
総じて、ひとつひとつは奇形でも作品としては納まりが良い。良いけれど、奇形は奇形のままであることを望む自分も、多分にいる。

ちなみに、たま子の小学生時代を演じるのは坂野真弥。『茶の味』の彼女だ。二枚目だね。
posted by やすゑ at 22:16| Comment(0) | TrackBack(0) | 映画 (か) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

『エリ・エリ・レマ・サバクタニ』

エリエリ.jpg

『エリ・エリ・レマ・サバクタニ』 ★★☆☆☆

浅野忠信演じるミズイ。中原昌也演じるアスハラ。
彼らの奏でる音楽が、不快を伴ったノイズにしか聴こえない。
それで、自殺を促すことで死に至らしめるウイルス感染―レミング病を抑制できると言われても…。たとえ生物学的にそうだとして頭で理解することはできても、感覚として拒否してしまう。
勝手な解釈をすれば、こんな暴力的で、非生産的としか思えないことにも存在が許されることを思えば、今ある世界はなんて豊かなのだろうと。死など考えもつかないだろうと。ウイルスを意思が抑制するだろうと。…本作で説明される解釈とはまったく違うけれど。

さらに、本作を観ていると悲観が生を生み、楽観が死を生む気がする。あえて二極化したが、この外には絶望があり、これは生にも死にも振れる。要するに、振り切れていない悲観は生への執着を生み、楽観は死に対する甘さを生むということ。
あえて述べるまでもなく、前者が、宮崎あおい演じるハナ。後者が、戸田昌宏演じる探偵のナツイシ。結局は、死を意識した上で、生きることを望まなくてはレミング病も、音楽も何も関係ない。とどのつまり、作品の外で自分自身、世界の解釈を完結させてしまっているのだけれど…。

ただ意外に思ったのは、思ったよりも世界がクローズされていること。世界規模の話かと思えば、辺境の地の話でしかないし。もちろん、そこから世界に通じていることは示されるし精神世界にも昇華されることもわかるのだけれど、表向きとしてはハナの救済の形を借りて、ミズイの物語を想像するよう構成されたシンプルなもの。
もちろんそれだけでなく、役者陣…とはいっても本業役者でない人も多いが、青山真治の関係者で固められ身内の祭りのような気がしてならないから。
そんな中、宮崎あおいの存在感は群を抜いている。とは逆に、ミズイの元恋人エリコを演じたエリカ(小田エリカ)の変貌ぶりに落胆は隠せない。『ワンダフルライフ』のイメージが強かっただけに。
posted by やすゑ at 22:13| Comment(0) | TrackBack(0) | 映画 (あ) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

『ベロニカは死ぬことにした』

ベロニカ.jpg

『ベロニカは死ぬことにした』 ★★★☆☆

ベロニカ…真木よう子演じるトワと同様に「なんでもあるけれど、なんにもない」、何でもなく、変わり映えしない日常に絶望して死を選択する人はいる。芥川龍之介の遺書にあった「将来に対する唯ぼんやりとした不安」も、本作とは至る過程は異にするにせよ類するものであろうし、死を選択しないまでも死を考える人間ともなればさらに数は増えるはず。生きる目的も見出せずに生きることは苦痛でしかない。
だから彼女は死を選んだ。
冒頭、彼女の仕事での変わり映えしない日々、プライベートでの羽目の外しようと、二面性を端的に描くことで、日常に飽き、生きる目的を求め、求めた末に彷徨い失望していることを象徴的に知ることができる。ただ、それだけであればよくある話ではある。
彼女にはかつてピアノがあった。
彼女が自殺に失敗し、放り込まれたサナトリウムの中で、成長と(良い意味でも悪い意味でもの)退化を遂げる過程で明かされる。
彼女の場合、生きる目的がなかったわけではない。迷うことなどあり得ないくらい厳然と、あった。日々、成長を実感できる彩り豊かな世界があった。あったが、それしか見ていなかった。見えなかった。だからこそ、それを失った時に彼女が直面する世界は、ただ単純で変わり映えのしないモノクロの世界でしかなかった。
院長が話す「成長する石」の話が彼女にどれだけの影響を与えたか。青天の霹靂に違いなかったはずだ。見えなかったことが見えた。と同時に、他者から「それで良い」のだと認められた喜びを噛み締めたはずだ。彼女はピアノを通して、他者…母親からの評価を得ており、同時に失ったことに絶望を感じていたから。程度の差はあれども、人は他者からの評価で自らの位置を確かめるところがある。

サナトリウムでの彼女は、自分を肯定することを学ぶ。
サナトリウムの住人たちは、患者、医師、看護士問わず境がない。患者よりもむしろそれをサポートする立場の人間のほうが異常と思えることは多いし、演出として意図的にでもあるのだろう。
結局、異常と正常の境目など曖昧と知るように、自ら見知り作り上げた世界の線引きの曖昧さを知る。線引きされた世界からの解放は、変化へと繋がる。変化は成長へと繋がる。
それはサナトリウムの住人たちにも言えること。
彼女の存在がまた彼らを変えた。
風吹ジュン演じる、パニック症候群を患い全てを失い歩むことを止めてしまった元弁護士は、再び歩みだす。
中島朋子演じる、夢の世界に浸ろうとする主婦は、現実と直面することを決意する。
そして。イ・ワン演じる、夢を追いかけ、否定され、言葉を失い、自らの殻に閉じこもる道を選んだ青年をも変えていく。

正直言えば、物語の余白部分があまりに明らかなために、自分に近付けることが感覚的にあまりできない。できないが、意識的になら理解できる。
物語自体、登場する人間たちは感覚に依るところが多いが、観る側としてそのまま受け入れられない自分がいる。それが作品としての完成度によるものか、自らの殻によるものなのか…。
posted by やすゑ at 22:10| Comment(0) | TrackBack(0) | 映画 (は) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

広告


この広告は60日以上更新がないブログに表示がされております。

以下のいずれかの方法で非表示にすることが可能です。

・記事の投稿、編集をおこなう
・マイブログの【設定】 > 【広告設定】 より、「60日間更新が無い場合」 の 「広告を表示しない」にチェックを入れて保存する。


×

この広告は1年以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。