2006年05月07日

『LIMIT OF LOVE 海猿』

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『LIMIT OF LOVE 海猿』 ★★★★☆

監督曰く「どんな新しい要素を入れ込もうと考えた時、TVシリーズで全てやり尽してしまった感じがした。(中略)最終的に「1」とまったく同じでいいんじゃないかと」と言うとおり、大雑把に作品を説明するなら「1」と変わらない。手を握りにいく男の物語。
なにせ原作「海猿」の描き手は、成長しない新米医師の物語として名高い「ブラックジャックによろしく」(特に限定されたスパンで話を終結させないといけないテレビ版がそうであった)の佐藤秀峰。それもありかなと。
しかし、本作における主人公、伊藤秀明演じる仙崎大輔が実際に成長していないということはないし(本質的なところは変わらないが/このあたりのスタンスは『踊る大捜査線』の青島刑事のほうに近いか)、時間は大きく経過している。アプローチの仕方も異にする。

前作『海猿』では、訓練生として潜水士となるまで、冒頭で彼らの若さ、無鉄砲さが強調され、後半でひとつの事件を通して一気に一人前の潜水士となる変化を描ききったが、本作では観客の心の準備を経ずに一気に事件へと突入する。そのわりに、そのあと事件内でのイベントフラグが些か少ない気もするのだが、それをまったく飽きさせないで見せきるのは監督の手腕か。

本作から『ポセイドン・アドベンチャー』『アポロ13』『バックドラフト』『タイタニック』『ダイハード』など、昨今の名立たる、ハリウッドのパニックアクションを連想させるのは簡単だ。それら素材をどうリミックスして新たな作品に仕上げるか、その手法に対する是非は毎度上がるが、観客の胸の多くを掴み、作品が持つ力、メッセージが充分なものであればなんら問題ないはず。フジテレビと東宝のタッグで近く始まりを探すなら『踊る大捜査線』からであり、その成功を受けての正統な二代目がおそらく『海猿』だ。
特徴として、クライマックスの連続。特に本作は事件突入があまりに早いので、これひとつで残りの時間を乗り切れるかと勝手な心配もしたが、余計なお世話であった。
大型フェリー「くろーばー号」座礁を発端に、沈没へと刻一刻と悪化の一途を辿る事件は、息つく暇もなく、緊張の連続。ただ、言葉通り緊張が寸断なく続くのであればそれが平均値となり、見せ場が見せ場としての機能を果たさなくなり作品としての面白さは半減するのは当然のこと。本作でそれを感じさせないのは、細かく緩急、もしくは静動がキレをもって機能しているため。
動が、フェリー内に閉じ込められ脱出を試みようとする仙崎や、佐藤隆太演じる、(大輔のバディでもある)潜水士・吉岡ら取り残された四人であるなら、静はいたたまれぬ、動くに動けないもどかしい思いを抱えたままの、ほかの潜水士、対策本部の面々、そして加藤あい演じる、仙崎の恋人である環菜。
急が、閉じ込められたフェリー内での四人の命懸けの脱出と、緩は時折挟まれる四人の、笑いをも含んだ息をつかせるやり取り。
手に汗を握るだけでない。息を呑み、悩み、切なく、笑い、息吐き、吸う。そして願う。渾然一体となり、作品は「1」と同じく、ひとりの手へと向かう。
特にうまいのは、フェリー内で起こる肝心な部分を隠し、観客をフェリーが沈没して行く様を、ただ手をこまねいて見守り、残された仙崎たちの力を信じるしかないフェリーの外にいる者たちと同化させることにとことんこだわること。そこには、付け入る隙のない、ただ信じることだけが残されている。
逆に、そこにいる浅見れいな演じるテレビ報道局員をもう少しうまく使えば、多くのエキストラを配した一般市民まで取り込み、さらに世界は広がったのだろうけれど。ただ、そこまで望むのは高望みであり、また別の見方をするのならば、彼女を配することはさほど意味がなかったと言える。(彼女と、荒川良々演じるディレクターに妙に存在感があるので)

本作は一応の完結編を謳ってはいるが、続編の実現の可能性は、望む声が高くなれば充分にありそう。少なくとも『踊る大捜査線』に比べれば、やり易かろう。監督も言外に匂わせているところもあるし、伊藤秀明ほか主要面子も、引っ張り出すに容易そうであるし。
まだ、終わらない。終わらせたくない。

にしても、環菜の「チェックイン」には負けた…。
posted by やすゑ at 22:24| Comment(0) | TrackBack(9) | 映画 (ら) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

『海猿』

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『海猿』 ★★★★☆

公開当時である夏、先に観た、『デイ・アフター・トゥモロー』が納涼にちょうど良いとしたら本作は真逆。夏に、さらに暑さを増す、情熱をストレートに表現した作品。
今どき日本映画では珍しいくらいだが、このあたりのシェアはハリウッド映画がしっかりと握っているので、今回本作に出合い、ああ日本映画に近頃このジャンルがなかったな、と気付くくらいである。また、『踊る大捜査線』のスタッフが作り上げていることから、その路線と言えなくもない。要するに、ストレートな熱血(青春)モノであり、エンターテイメント性溢れる一品。

前述した通り非常にストレートな物語、アプローチであるのだが、前半と後半とではまったく違った向きにベクトルが向いている。
前半は青春群像劇の趣で、バカバカしいまでの真っ直ぐさをバカバカしいまでに一生懸命やる。それが周りにはどれだけ奇異に映ろうとも。言い換えるなら、その体育会系な一生懸命さが突き抜け、可笑しさを醸し出す。特に水槽での素潜り対決や、訓練での鬱憤を晴らすかのように獣と化して街中へと散っていく姿など、その真摯な眼が逆に笑いを巻き起こす。
体育会系のノリに、中に入ってしまうと半ば付いていけないところもあるけれど、こうやって客観的に見るのは大歓迎だ。そんな立ち位置を認識させ、まさに自分と同じく重ね合わせることができるのが、加藤あい演じる、介護のため休職してまで田舎に戻ってきているヒロインの環菜。こうして客観視できる対照的な冷静な立場を置くことで、彼らをより際立たせることができるし、また観客が同一視できる人物を置くことにもなる。このあたりのバランスはうまい。常道ではあるけれど。

ただ、後半の展開は、よりハリウッド的になり過ぎているかなと。真っ直ぐに、見慣れた同じ形として。比較に上げられる作品として真っ先に、デ・ニーロが出演していた『ザ・ダイバー』が上がるが、もちろんまったくに同じであるはずはない。ただベクトルやトーンは同じ。その真っ直ぐさを、クサいと思わせるまでに昇華させてしまっている。このあたりクサさが、クサさとして残ってしまうのが、日本映画としてこのタイプの作品が熟練していないところで、もう一呼吸置いてくれるとありがたかった。

冒頭に挙げられる「タッグを組み海中へと潜り、ひとりが海中深いところで身動きできない状況で、ひとりが戻れる分しか酸素残量がない場合もうひとりはどうするか?」という問い掛けにも、あまりにもストレート過ぎる。優等生過ぎる答えしかできないのが惜しい。
もちろん、それに相応しい満足と、続く感動は当然あるのだけれど、一方でもうひと捻りあったら、と思う。
ただ、これは観終わってから冷静になって思うことで、実際には最初から飛ばしてくれるので作中にはすっかり嵌まり、その時々はただ手に汗握っている自分がいたりするのだけれど。
posted by やすゑ at 22:19| Comment(0) | TrackBack(2) | 映画 (あ) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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