2006年05月06日

『予感』

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『予感』 ★★★★☆

ポラリスのオオヤユウスケ、クラムボンの原田郁子、ハナレグミの永積タカシ、の三人からなるボーカルユニットohana。彼らのデビューシングル「予感」のPVを撮ることになった廣木隆一が、3人と「なら映画にしよう!」と盛り上がり製作されたのが本作。
上映時間51分。長編映画と言うには短い。けれど十分映画な仕上がりを見せたショート・ムービー。もちろん、中ではohana「予感」を一曲まるまる流さなくてはいけないし、物語は曲とリンクしなければならない。となると、物語る時間もテーマも制限される。
“予感”という言葉(もしくは曲)から端を発することになる本作は、曖昧なものを曖昧なものとして、しかし確実の心に残る物語を紡いできた廣木隆一の得意とするところ。そういえば、傑作『ガールフレンド』も“愛”“友情”“エロス”をテーマに、女性を主人公に据える、という縛りがあった。ならば、本作の監督に廣木隆一は間違いない。テーマは“予感”。問題は…時間だ。
ここで廣木隆一は思い切った手段を取った。
モノローグから、物語が立ち上がる段までばっさりと切り捨てた。
だから三本の線から成る物語はどれもすでに進行形だ。
これがohanaの歌う「予感」と実にマッチしている。歌詞で“突然の心変わり”“とまどったまま”とあるすぐあとに、“出会った”“恋におちていく”と、歌詞を全て追えばひとつの恋物語を語っていると取れるものが、こうして端的に上げると、新しい恋の始まりを予感させるものとしても受け取れる。過去を振り返るではない、日常にふと訪れた時間感覚のなさも感じられる。穿った読みをするなら時間軸を意図的に無視しているようにも思える。浮遊感が心地良い。
こうした立ち位置の不確かさがそのままに映画に反映される。
物語の始まりを意識し始めた途端に、これは佳境、もしくは転換期にすでに達していると気付く。
オオヤユウスケ演じる家庭教師・花田は、家庭教師先の姉妹の間で恋心を揺れ動かしている。原田郁子演じる工場勤めのハナは、自分の恋の芽吹きの可能性を横目に見ながら、自ら働く会社が傾き、哀しそうにする社長を見つめる。永積タカシ演じる漫画家・花太郎は、隣に住むヘンなオヤジと、美女との別れ話に聞き耳をたてる。
どれも、物語は動き始めている。彼らは動き始めている。彼らをそう導いた過程は語られない。語られないからこそ、無限に想像は広がる。それもまた、厳選し、端的に言葉を乗せ想像する余白を多く残す歌詞と近い。

それにしても、配役の妙。
観るまで忘れかけていたが(というか脇役の豪華さに目を奪われていた)、主演の三人は音楽のプロであっても演技のプロではない。演出する廣木隆一の巧みさもあるが、何より配役の妙で彼らを浮き上がらせない。
最もニュートラルな佇まいのオオヤユウスケの周りに、貫地谷しほり、河井青菜。家庭教師先で教える女子高生の妹(貫地谷しほり)、さらに姉(河井青菜)に恋心抱き抱かれるというおいしい役どころ。あのシチュエーションで貫地谷しほりに迫られるのは男にとっては拷問。反則。本作の柱とも言える彼のエピソードには、大森南朋も関わり磐石の態勢。
続いて、原田郁子。物語の地味さ、彼女の醸し出す穏やかさに合わせるよう、わりに地味な脇の配役であるが、ここでもっとも関わるのは社長を演じる大口広司。とはいえ、彼の場合、どちらかといえば寡黙に通すので少しでも彩りを施そうと会社同僚に山田キヌヲ(少しの出番ながら抜群の存在感!)、社長夫人(と言うほどに華やかでないけれど)に石井苗子。
最後に、永積タカシ。彼の個性にプラスアルファされたエキセントリックさ。与えられた役どころはコメディリリーフ。もちろん、彼にも恋の予感があり、そこに今井祐子が配されるが、今井祐子との、そして永積タカシとの相手役、三角関係の一角に竹中直人。作中からはみ出すぎりぎりのところで笑いを生む才能は彼の出演作から察しても間違いないところ。永積タカシとのやり取りは笑いと同時に和みを生み、ここばかりは空気も緩む。

進行形の彼らの日常、加速がさらにかかったところで物語の幕は閉じる。当然、その延長線上に何かまたあるのだろうが、それもまた観客の想像に委ねたまま。
ohanaのPVとしての役割を果たす歌の部分はエピローグの直前に挿入される。結局、PVとして端的にこの作品が流れる箇所がここであるよう、少なからず物語との差異を感じるが、こればかりはしょうがない。ただ、廣木隆一が作り出すことを得意とする空気の感じはそのままなのが嬉しい。
このあと、エピローグへと続くがこれはおまけみたいなもの。作中のキャラクターと、現実での彼らとの錯綜感。まあ、突然饒舌に、語りすぎている感は否めないけれど。
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『チェケラッチョ!!』

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『チェケラッチョ!!』 ★★☆☆☆

思い描いていたほどに酷くはなかったが、客(ターゲットとなる若年層)を呼ぶに安易な記号、発想が透け過ぎている。だから作中の彼らがいくら熱くなろうが、常に冷静な自分を認識できるため世界に浸かれる瞬間は訪れない。

今どきの若者を中心に据え、彼らの周りに起こる騒動を描きつつ、核心で爽やかな青春劇、純愛を描く。今時の若者を描くに分かりやすい記号を描き、同時に純朴な彼らを描くともなると、それこそ分かりやすく、振り切れれば『Deep Love』にでもなるのだろう。
しかしここで「沖縄」というフィルターが役に立つ。沖縄という風土が持つ緩やかさ、奔放さが“今どき”“純朴”と反発し会うことの多い記号を、ファンタジーに振り切れることなく成立させる。(『Deep Love』は明らかにファンタジー、もしくはコメディ)
そういう意味で、おそらく安直に浮かんだ“沖縄”という記号の選択は予想以上、もしくは予想通りの効果をもたらしている。が、市原隼人演じる透はじめとする沖縄弁に違和感が強い。主要キャスト4人がひとりとして沖縄弁を生来持っていないことを指摘するのではない。実際に正しい方言を使えているかどうかを指摘しているわけではない。もちろん、役者たるもの作品に合わせ自らを変貌させねばならないと思うが。
近い年代の若者を描き、方言が重要なキーワードとなった『きょうのできごと』『スウィングガールズ』に違和感…というより嫌悪感がなかったのとは対照的に、彼らの発する沖縄弁に嫌悪感がある。そこにある軽さ、からだ。

作品のターゲットとなる年代から求められるのは“格好良さ”だけ、他は何をやっても許される市原隼人についてはこれ以上語ることはしないが、彼らの幼馴染である、柄本佑演じる暁、平岡祐太演じる哲雄、井上真央演じる唯は好感。ただ、透の憧れの人、渚を演じた伊藤歩はミスキャスト。本作でなら本来彼女が演じるは、透たちの側でしょう。『きょうのできごと』での彼女がそうであったように。
と、それだけが原因ではないが、実際、透の渚への恋心は、この年代が持つ大人の女性への憧れ、の平面的なイメージ以上に力を持ち合わせない。
そもそも彼が、彼女への熱い想いを一手に曝け出す場としてあるクライマックスのライブに力がない。というよりも、本作のキーワードであるラップに想いが全くに乗っていない。音楽を中心に据えた作品で、作品と切り離してさえ武器となる音楽にこれほどに力がないのはラップというもの自体、言葉に重さが必要とされるからか。例えばこれがスタンダードであるなら語らずとも曲の持つ歴史が語ってくれるだろうから。
透自身の想いは当然の如く歌詞に乗っていない。彼の歌う歌自体に問題があるわけではない。彼のそれまでのふざけた様を見、その彼が曲に想いを乗せたにしては美辞麗句、彼のパーソナリティからは到底出しえない言葉が続くため。もっと下手くそでいい。乱雑でいい。格好悪くていい。が、彼に求められた“格好良さ”がここで枷となる。普段、能天気でありながら締めるときは締める。そう持って行きたいのは分かる。分かりすぎるがゆえに“ねじれ”も分かり易過ぎる。ラップに乗せた言葉に近付くには彼は能天気過ぎたし、彼を表現するには奇麗過ぎた。

ただし、徹底してターゲットとなる若年層に媚びた作りは感心したもの。主要キャストに加え、玉山鉄二、陣内孝則、ガレッジセール、KONISHIKIと、彼らにとって豪華と分かり易いキャストを集め、一方で、(ミスキャストではあるが)伊藤歩、平田満、松重豊、と実のあるキャストもそつなく配している。
監督、プロデューサーとテレビ畑にどっぷり浸かった者らしくマーケティングは完璧。実際に客は呼べているよう。ただ、あまりにも安直さが透けているだけ。このマーケティング力が今の日本映画の隆盛を作る一翼を担うことを否定はしないし、その中に佳作もある。がしかし、監督に個性でなく万能さが求められ作家性に頼ることない以上、せめて物語に頼った作品を仕上げてもらいたい。記号だけであとに何も残らないものは、要らない。
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『小さき勇者たち GAMERA』

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『小さき勇者たち GAMERA』 ★★★☆☆

「平成ガメラ三部作」より六年の月日を経て、ガメラが帰ってきた。
「平成ガメラ三部作」は、怪獣マニアだけでなく、普段怪獣映画を観ない者にも評価された、怪獣映画としては比肩なき傑作。しかし、ターゲットとして怪獣マニアは熱狂し、彼ら以外の大人をも絶賛した一方で、子供たちは切り捨てられた。子供たちの味方であるガメラが子供たちを、ある意味見捨てた。そして怪獣映画の金字塔を打ち立てた。このことは、映画版「クレヨンしんちゃん」にも重なる。
テレビからのおバカ路線を引き継ぐ形で当然スタートしたが、転機となったのが『クレヨンしんちゃん 嵐を呼ぶ モーレツ!オトナ帝国の逆襲』。昭和への郷愁を大いに誘ったこの作品は、まさに、昭和に幼少、青春時代を送った大人のための「クレヨンしんちゃん」。置いてきぼりを食らわされた子供たちを尻目に大人たちの評価を一気に高め、これまたアニメ映画を、アニメ映画ファンだけでなく、普段アニメ映画を観ない者にも目を向けさせた。監督の原惠一は続く、『クレヨンしんちゃん 嵐を呼ぶ アッパレ!戦国大合戦』で、その年をも代表しえるエンターテイメントの大傑作を生み出し頂点を極めた。しかし翌年、原惠一は事情により降板。水島努へとバトンタッチされた『クレヨンしんちゃん 嵐を呼ぶ 栄光のヤキニクロード』は十分に大人に鑑賞に堪えうる佳作ではあるが、少なくとも原惠一が描いたベクトルを一度リセットし、「クレヨンしんちゃん」を子供たちに還した。
本作…『小さき勇者たち GAMERA』の立ち位置を、「クレヨンしんちゃん」に重ねるなら『クレヨンしんちゃん 嵐を呼ぶ 栄光のヤキニクロード』である。
ガメラは還された。子供たちに。

本作におけるガメラは、そのままヌイグルミ。
「ガメラ」シリーズと人気を二分する「ゴジラ」シリーズにおけるミニラのように、クリッとした目玉が愛嬌たっぷり。富岡涼演じる透の見守る中、孵化したガメラ、子ガメ時代のガメラを演じたのが実在するカメ(ケヅメリクガメ)だけあって愛くるしいのは当然のことだが、成長してからの姿も愛くるしさはそのまま。そこに「平成ガメラ三部作」におけるガメラのような、凄みはない。
というよりも、本作におけるガメラは主役でさえもないのだけれど。タイトルでもサブタイトルに追いやられているよう、あくまで脇役。主役は、涼や、夏帆演じるヒロイン麻衣、涼の遊び仲間、そのほか子供たちである。
ガメラを育てるエピソードなど、そのまま、動物や昆虫などを飼おうとする子供たちの体験がそのまま反映されている。例えば、ガメラを飼うことを子供たちの秘密とするエピソード。大人たちを信じないわけではない。秘密を持つことへの喜び。そんな彼らに対し、大人は羨ましさと疎外感を持つ。また、漫画や彼らのする遊びに今の子供たちが象徴される。(一方で、性別の違う幼馴染同士の家が極端に隣接し、お互いの二階の窓越しに行き来や物の受け渡しができるという、むしろ懐古的な住風景が用意されてもいるのだが)
津田寛治演じる涼の父親や、寺島進、奥貫薫演じる、麻衣の両親たちも大人としての立ち位置を十分に認識させつつ、あくまで子供たちのやることを頭ごなしに否定しない。だからこそ、本作の敵(と言うと大袈裟か)と呼べるのは、頭でっかちで盲目的、典型的に融通の利かない大人の代表である、田口トモロヲ演じる一ツ木参事官や石丸謙二郎演じる雨宮教授かもしれない。

主人公たる子供たちは、現実的とは思えない手段で、大人と、ガメラが直接戦うこととなる海魔獣ジーダス。もちろん、手段を考えるならいくつもある中で現実的な手段も講じられたことだろう。が、あくまで子供たちの映画としての本作は、拾ったカメがガメラだったというおおよそあり得ない起点からのファンタジーを貫き通す。
ひとつに、不思議な力を持つ赤い石。ひとつに、子供たちだけに通うテレパシーのようなもの。彼らはこれらを拠り所、もしくは手段にして戦う。子供じみた、と断じてしまうのは簡単ではあるが、これはこれで良いのではないかと思う。ただ、あくまで“不思議な力”という言葉だけ頼っており、例えば赤い石にしてもどんな力を持つか、どのような過程を経て受け継がれていくのか、など多少の説明があってほしかった。説明不足にもほどがある。

そんな中ひとつ、明らかに子供映画の枠から飛び出ているのが、海魔獣ジーダス。
ギャオスの肉片を食べた爬虫類が変異巨大化して生まれたと説明されているが、ギャオスの面影はなく、むしろ恐竜。T-REXやヴェラキラプトル、トリケラトプス、ステゴザウルスなどメジャー恐竜の類ではなく、ディロフォサウルス。『ジュラシック・パーク』に登場した、脚色された形でのディロフォサウルス。エリマキトカゲに似た小型の肉食獣(実際には中型であったらしいが)と言えば分り易かろう。
さらに、口からは銛のよう、長く伸び武器となる舌を出すわ、おおよそグロテスク。個人的には血肉踊るフォルムであるが。(ただ、動き出すと着ぐるみらしい妙な愛らしさはある)
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『輪廻』

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『輪廻』 ★★★★☆

ホラーとして見ればある意味完成されていると言える。
怖さの度合いとかでなく、安心して観ていられるというか。演出や物語でなく、少し漠然としているかもしれないが、色調、雰囲気から。
『呪怨』が意味あと付けでの、凶暴なまでに無方向に突き進む恐怖とするなら、本作は先ず意味有りき、の整然とした恐怖。
“輪廻転生”という題材というか思想、有りき。
しかし、自体の意味は世間に浸透していようと具現化されたものではない。それを地に着かせるために、先ず現実にあった事件を立ち上げ、起点にし、劇中劇という形でさらに身を纏う。ただ、巧みに輪郭はぼかす。それを補い、さらに身を纏う形で劇中劇の役者たち、起点となる事件に吸い寄せられるよう取り込まれる人間たちを、唯一形あるものとして提示させる入れ子のような構造。

35年前にあった大量無差別殺人。ひとりの殺人者と、11人の被害者。
作中で、事件を題材に映画が作られる。椎名桔平演じる映画監督・松村がメガホンを取る「記憶」という作品。そこに役者として参加することになる、優香演じる新人女優・杉浦渚ら12人の役者たち。
35年前にあった事件は、余計な情報を与えられず、おぼろげに、しかし確かに存在する。演じる役者や監督たちは目に見え存在するが、仮の姿を演じるに過ぎない。
彼らは、35年前と現在を一方向で映し出すに過ぎない。
それを結ぶ存在として、輪廻転生した者たちがいる。
彼らに当然自覚はない。(一部を除いて)
だが、彼らがその自覚を取り戻した瞬間、一般になら輪廻転生と聞き、「昔、私は何々だったのよ」と話のネタにしかならないものが、恐怖へと変わる。前世での最後の記憶がイコール恐怖だからだ。
事件自体は恐怖を想起させるものだが、イコール恐怖にはなり得ない。恐怖は、劇中劇のタイトルにあるよう“記憶”にある。
あくまで恐怖の本質、物語の核心を見抜かれようとはしない。

うまいな、と思うのはこれ大まかに捉えて決して特出した題材でないからこそ。
それこそ「本当にあった怖い話」にあるような題材。それを、中心に位置する事件自体を幾重に囲みながら二重三重と身を纏う構造にする。ありがちが故に次第に進行していく新たな恐怖を鵜呑みにさせ、実は肝要となる部分から目を逸らそうとする。事件をまったく別角度からアプローチしていく香里奈演じる大学生・木下弥生の存在もそう。恐怖を前に、彼女の存在の意味を深くは考えない。
縦方向にも横方向にも、35年前の事件から派生した物語や人間が配置されるため、リアルタイムで何が進行しているのかを掴みきれない。否。掴みきれていると錯覚するが、元から勝手に想像し得る発想でしかない。

個人的なことを言えばさほどの恐怖は感じないで、逆に“サプライズ”に至るまでの道筋や雰囲気に思わずニヤついてしまい、感情を言葉に置き換えるなら楽しくてしょうがないのだが、同席した連れや一緒に退場してきた人たちの話を聞くと、『呪怨』と同じく、恐怖自体が生活に密着しているので怖い、そして、気持ちが悪い、らしい。この手の作品から受ける生理的反応は人によって極端に左右したりするから一概にどう、と断じるのは難しいが、一応のところ着地点を見付けるのなら、怖く、気持ち悪いのだろう。
一見、無作為に無差別に選ばれた犠牲者たちの恐怖を描ききった『呪怨』も結局そういうところが評価されてのことだろうから、清水崇の真骨頂健在、と言えるかもしれない。

キャスティング的にも一見驚きを持って迎えるだろうけれど、実のところそうでもない。
『呪怨』にしても、メジャーに成り上がった途端、アイドル(女優)の奥菜恵、酒井法子がキャスティングされているわけだし、普通にホラーといえばメジャーであるほど、玄人受けする女優を廃したりするもの。
ただ、優香がそれなり器用なのは知っていたが、ホラー作品にこれだけフィットするとは思わなかった。キャラクターの個性が一方に振り切れているので形にしやすいのはあるにしても、彼女のバラエティ番組から受けるイメージを完全に覆しての熱演あってのこと。
香里奈、椎名桔平らは思ったとおり。演出のおかげか、昨年一気に映画での露出があるも、新人としての拙さが残った香里奈もそのことをさほど感じないまま。
また、ホラー作品常連となりつつある、松本まりか(というか『ノロイ』の印象が強いだけだけれど)、清水組常連の藤貴子、諏訪太郎の活躍も嬉しい。
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『かえるのうた』

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『かえるのうた』 ★★★★☆

『たまもの』と続けざまに観たのだが、この手の作品本当無駄がない。無駄がある…とすれば、必要以上に予定回数挿入される濡れ場なのだけれどそれを否定しては本作も成り立たない。
女性ふたりの浮遊感のある日常。と捉えることもできるし。
女性同士の友情。と捉えることもできる。
自らの居場所(帰る場所)を探す女性ふたり、とタイトルにある「かえる」を、“帰る”と“蛙”、ダブルミーニングで捉えそこから作品のテーマをも捉えることもできる。
一緒くたにしたのが本作。といってももちろん複線が並行しているのでなく、同一線に複数の意味を持たせ語られるために、一見シンプルであるのに深い。深いけれど、それを強く主張したりしない。

漫画喫茶で読みたい本を取り合い喧嘩にまで発展…という最低の出会い方をする、向夏演じる朱美と、平沢里菜子演じるきょうこ。しかし、漫画喫茶から追い出された帰り道、不思議とふたりは意気投合。
裁縫工場で働く朱美。将来自分の作った服を着させることを夢見て、夫たる(実は彼が夫であることを観終わったあと知った)、吉岡睦雄演じる良男と暮らしている。意図的か、吉岡睦雄の演じる役の名前は『たまもの』と一緒。脱線ついでに彼の話をもう少しすると、『たまもの』ではいかにも自堕落でやる気のなさそうな郵便局員を素のように演じていたかと思えば、本作は一転、髪の毛を伸ばし一見しもてそうに、髪型や顔つきだけでなく所作までも変わっていたのには驚いた。
話を戻す。朱美と良男の夫婦生活。良男は平気でゴスロリの浮気相手、七瀬くるみ演じる渚を自宅に連れ込み、それを朱美に目撃されたとしてもどこ吹く風。
一方のきょうこ。昼夜逆転の生活を送り、夜は漫画喫茶で漫画を読むか、援助交際で身体を売り、昼に寝る生活。ただ、彼女にも夢があり、漫画好きが高じ漫画を描くようなり、それでいつか生活ができたらと思っている。

朱美ときょうこ、外見一見して両極端のふたり共通するのは、自らの居場所の不確かさ。手の届くぎりぎりの距離にある夢。ふたりが互いを必要とし、一方で反発しあうのは、単純に漫画好きとしてもそうであるし、不確かな今を確かめ合える同士としての親近感と、お互い鏡を見るような不快感が同居しているから。
不起用ながら幸せを求めるふたり。彼女たちは道を間違いながらも確実に距離を縮め合い、今をひたすら生きていく。
そこに悲しい現実が襲い、二人の仲は現実の距離的意味合いで裂かれる。

この時点まで、朱美の素性に余計な説明は加えられないし、彼女の夫である良男…彼が夫であることが最後まで知り得なかったよう、彼についてはさらに説明がない。彼女の女癖の悪さだけが記号として扱われ、またこの手のプログラムピクチャーに必要な、男優としての役割のみ特出される。女性ふたりの距離の縮め具合もただ漠然としていて確たるものとしては提示されない。
しかし、それらも朱美ときょうこ、ふたりが裂かれてから以降のくだり、驚異的な余白の使い方に比べれば驚きに値しないのだが。
あくまで寓話。
彼女たちの境遇、夢、そして今は記号として力を発揮すれば良い。長い道程を一時間程度の時間で語ることなど到底できない。だからこそ時間をも、現実をも超越し、踊る。万事、結果オーライ。全てを肯定するかのように。歌われるシンプルな「かえるのうた」(すごくいい)。全てを超越しての突き抜け具合。これこそ映画だと感じる最高の瞬間。

ところで、『たまもの』でも主人公たる女性の部屋がボウリング一色に彩られていたように、本作でも朱美の部屋が蛙グッズ一色に彩られている。蛙の気ぐるみを朱美ときょうこ、互いに着まわしてくれるサービス付き。これらがとことん可愛らしい。
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『たまもの』

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『たまもの』 ★★★☆☆

盲目。狂気。無垢。
どの言葉が一番にしっくり来るのだろう。
ふとしたきっかけで知り合った郵便局員を、時に執拗に、時に盲目的に。別れる意味も分からない。心の隙間を何かと思う。自ら言葉を発することない無垢な女性がひたすらに追いかける純情。ストーカーと化してしまえば意味することの説明もひとことに簡単に済むのだけれど、監督のいまおかしんじと主演の林由美香はそうとはさせない。

ボウリング場で働く、林由美香演じる愛子。
彼女はただ請われるままにボウリング場の店長である男の性欲を受け止め、一方で、郵便局員である彼、吉岡睦雄演じる良男に尽くす。思いを弁当に託し毎日毎日彼の元に届ける。疎ましく思う彼の気持ちを立場を慮らない彼女を無神経とは呼べない。呼べない魅力が彼女にある。無垢、と呼ぶのが一番しっくりくるか。
濡れ場でのあえぎ声でしか言葉を発することのない彼女。コミカルな動きで心情を表現したかと思えば、何の冗談かと思える動きも。まったくに掴みどころのない彼女だが、一途に、愛らしい魅力に溢れる。だからこそ、もどかしい。
コケティッシュなのとは違う。冒頭の防波堤の上でひとり弁当を食す彼女の姿からして、妙に乾いたイメージがある。反面、30歳半ばとは思えぬ可愛らしさ。特に目を見広げた時の、白目がちな大きな目をくりくりさせるさまは子供のよう。
しかし、同時に狂気を感じるのも確か。この恋愛劇が辿り着く先から巻き戻しての結論ではない。大きな目が魅力的であることと同時に、目の下の隈が常に意識される。彼女の、ボウリング愛に満ちた部屋はコミカルかつ愛すべきものであるが、喋るボウリング球に象徴される妄想も同居する。
コミカルと狂気。現実と幻想。愛らしく妄執的。その狭間を行き来する。
全て超越したところで濡れ場の彼女。思いつめたような、痛切な姿が彼女の本当の姿なのだと。だが、その時だけにしか自らをさらけ出すことのできない彼女にまたもどかしさを募らせる。堂々巡り。

シンプルに分かりやすく魅力をふりまく、良男の同僚であり彼を誘惑する、華沢レモン演じる郁美。押しの強さは愛子に通じるがとにかく分かりやすい。愛子を捨て、郁美になびく気持ちは十分すぎるほどに分かる。だが、振れたとしてもまだ愛子に戻ろうとする反動力にあがなえない気持ちも分かる。また、戻る。

良くも悪くも、林由美香の魅力に全編彩られ縛られた一品。
posted by やすゑ at 23:26| Comment(0) | TrackBack(1) | 映画 (た) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

『寝ずの番』

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『寝ずの番』 ★★★★★

なぜこんなに下ネタ満載で、不謹慎であるのに、下品なイメージに結びつかないかが不思議。個人への底知れぬ愛、関西弁、何よりそれ以上に、作る側がとことん楽しんでいる雰囲気が、多少はあるだろうやましさも、つい覗き見てしまう誘惑に負けてしまうからだろう。立場とすれば、親戚の末端という故人との関わりがほとんどないものの、何をすれでなくも毎回毎回寝ずの番の末端に居座っている、蛭子能収演じる田所と変わりがない。結局、作り手としても明確に観客を巻き込んでしまう意味で彼を据えているのだろう。

作品としては三部構成。導入に木村佳乃演じる、噺家の嫁・(ポルターガイスト)茂子の独壇場とも言える活躍。ほか全て寝ずの番で語られるエピソードで撮りきってしまう潔さ。
ピークとしては前半、長門裕之演じる稀代の噺家・笑満亭橋鶴師匠のお通夜ですでに来てしまう。映画というか、物語る鉄則を意図的にではなく、自然と破っているが、これも導入の茂子の活躍から、師匠のお通夜までの流れがとことん面白いから。
後半は、本作を語る上で顕著な哀楽のうち、哀にどちらかというと流れる。楽を思い切り楽しんだあとに、哀を含んだ人情味溢れる物語。もちろんトッピングとして楽を忘れない。
特に、三回目のお通夜で突然登場する、堺正章演じる鉄工所の社長(故人たちとの関係は映画を観て確認されたし)と、中井貴一演じる噺家のひとり・橋太との歌合戦は見応え、聞き応え十分。上品な私(…)からすれば分からない言葉もあれど、観客の心の大合唱も取り込んで、勢いでそのままクライマックスの合唱へと流れ込んでしまう。
合唱での、現世、あの世入り乱れた映像に心躍る。これは意図的に仕掛けられた遊びであるが、明確なところで故人が自らのお通夜に登場し場をさらう。が、特に遊び心が溢れるのは、師匠のお通夜、不謹慎ながら笑わずにいられない故人を支え起こしての、らくだのかんかん踊り。予告編でも流れているのでこれに惹かれ足を運んだ人も多いのだろうが、故人もいつの間にか踊りだすほどの可笑しさ。周りのサポートで踊っているように見えるのでない。本当に踊る。こうした映画でしか成立し得ない寓話的映像に、センスを感じる。と同時に、私が映画に対しもっとも惹きつけられる理由。

品が良い。とは言わない。でも下品では間違いなくない。振り幅を存分に意識しながらこの間を確実に外さない、生来の監督センス。
本作を観れば分かるとおり、テレビの流出はありえない。(放送禁止用語の数が半端でないので) まあDVDで鑑賞することは可能だろう。けれど、映画館という暗闇の中で、スクリーンの中にいる彼らとともに、観客もが一体になって醸し出す空気は変えがたい。そのことを強く意識させる極上の一品。
ぜひ、劇場にて。
これを逃すことこそ、もったいない。それこそバチが当たる。
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『かもめ食堂』

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『かもめ食堂』 ★★★★★

ヘルシンキの空気は思ったよりもずっと落ち着いたものだった。

デビュー作『バーバー吉野』では少年少女を、『恋は五・七・五!』では青春真っ只中の高校生、そして本作は中年女性を。意図的かどうか分からないが、徐々に切り取る対象の年齢を上げてきている。
この荻上直子という監督、一筋縄にいかない。
『バーバー吉野』は、子供は対象であったというだけで、そのことにさほど重きを持たない。基本的にアイデア勝負の、まだ拙さの残る、地方の寂れた都市を舞台にした寓話。『恋は五・七・五!』は一転して、『ウォーターボーイズ』『スウィングガールズ』『シコふんじゃった』などに連なる、マイナーな青春(スポーツなど)にスポットを当てる売れ線アイデアを着想とし、オフビートに描いた秀作(でも評価・興収ともに芳しくない)。ともに着想に重きをなし、作品自体は正直無難に仕上がっている。作家性の色濃く出るタイプではないし、どちらかというと脚本の軽妙さが目立つ。実際、「サボテン・ジャーニー」「やっぱり猫が好き2005」と、本作主演の小林聡美絡みのテレビドラマで脚本のみ参加している。
本作も、フィンランドで、中年女性三人、食堂を営む。という着想からして心惹かれるものがある。しかも、主演三人に小林聡美、片桐はいり、もたいまさこの個性派三人。原作は群ようこ。
そこで荻上直子は、かつての作品とは間違いなく違う、より落ち着きを持った、無駄のない、自らの作品を作り上げてきた。

寓話。
フィンランドで食堂を営むということを想像もしたことないことなので(当たり前か)、まだ見ぬ世界を覗き見る興奮は抑えられない。対し荻上直子、冷静に興奮を撫でつける大人の対応に驚き。無駄のない北欧の透き通るような青、もしくは白のイメージそのままのかもめ食堂の佇まいに、どこか(ムーミンの故郷だからというわけではないだろうが)妖精じみた佇まいの、小林聡美演じるサチエ。今まで見たどの彼女よりも美しい。どちらかと言うと騒がしいイメージであったのが、良い意味での裏切り。
誰もいない(厳密には誰も来ない)食堂の、ガランとした奥行きのある空間。満員となり賑わっている様を見て、ああこんなに狭かったのね、と気付かされる。

まだ誰も来ない食堂に、ひとりの日本かぶれのフィンランド人の若者が足を踏み入れることから話は動き出す。
食堂に、片桐はいり演じるミドリが加わり、もたいまさこ演じるマサコが加わる。この頃になるとひと癖もふた癖もある客たちも続々と登場し始める。思いつめた顔をし、店内を睨めつけるが店内へとは足を踏み入れない中年女性リーサ(クリア・マルクス)。典型的な、おしゃべり好きなフィンランド人中年女性三人組。これは万国共通。そして、美味しいコーヒーの入れ方を教えるだけの謎の中年男性マッティ。演じるのが、『過去のない男』のマルック・ペルトラ! あの、独特の空気を持ち、美味しいコーヒーを入れるコツを教える時の、彼の絶妙の台詞といったら!
サチエがミドリと仲を深めるきっかけとなるエピソードといい、マサコの超越した存在感といい(彼の存在が寓話性をより高めている気がする)、フィンランドのなんでもない風景といい、特にカフェテラスでサチエ、ミドリ、マサコ、リーサ四人が並んで座るだけの妙な可笑しさといい、日常でこそ輝く道端のエピソードを拾い集める中でも、マッティの存在は特筆すべきもの。
マサコが言うよう「人は変わっていく」のは間違いないのだけれど、それもごくごくゆったりと、と実感してしまうのは、サチエの最後の台詞が冒頭と何も変わっていないからだけではあるまい。

こうして賑わいを見せていく食堂ではあるが、多人数がスクリーン狭しと出てくるのでなく、どちらかというと限られた人間が節度持って出てくるので、いつまで経っても落ち着いた佇まいを損なわない。
加え、食堂を回す三人の背景が余計に語られないというのが、神秘性を増す。余白の使い方にも品の良さを感じる。
荻上直子、いつの間にこんなにうまくなったのだろう。

賑わいを見せるのは、食堂で出される食事の数々。
おにぎり。生姜焼き。とんかつ。卵焼き。鮭の網焼き。…。
誰もが語りたくなることだろうから、特にここで多くは語らないが、日本食の素晴らしさ感じること、食欲を刺激すること必死である。
posted by やすゑ at 21:52| Comment(0) | TrackBack(0) | 映画 (か) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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