2006年05月31日

『嫌われ松子の一生』

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『嫌われ松子の一生』 ★★★★★

中島哲也、『下妻物語』公開時、「武器全てを使った」に近いことを言っていた。
しかし、まだ隠し持っていた。否。使う武器は基本的に変わらない。
中島哲也、渾身のフルスイング。ファイターズの小笠原ばりに。
いや。
まだ強く振れるのか? 彼が武器を惜しげなく使ってまだ二作目。
だとしたら恐ろしい。

幼少時代、厳格な父に物静かな母。時代をそのまま反映した家庭に生まれた松子。
厳格だけれど大好きな父は病弱な妹に構いっきり。なかなかに自分は構ってもらえない。このあたりは、主観的にそうであることを語るだけで客観的にどうであったかは語れない。得てして、父親からすればそうではなかったりもするのだが、ここでは言及されない。
(ちなみに幼少時代の松子を演じているのはドラマ「ちびまる子ちゃん」でまる子を演じた奥ノ矢佳奈。まる子の成長した姿でコメディアンを演じた木村カエラが本作ではそのまんま人気歌手なのが面白い)
以降、松子の主観性は半ばなくなり、彼女の存在は常に他人の口から語られる。もちろん、彼女の存在、主張は半端なく感じるのだけれど、思いがない。彼女の生き様がひとり歩きしていくのに対し、幼少の時分の松子がより主観的なのは意図したものなのだろう。だから、観る側も語り部たる、瑛太演じる笙と同様に彼女を深く知ろうと欲する。
終盤、彼女が再び主観性を取り戻す。彼女のリアルな存在がまったくないに関わらず。そこで彼女が接しているのも“家族”だ。

父親に構ってもらいたい。構ってもらいたい一心から生まれた健気かつ笑わずにいられない涙ぐましい努力。しかし報われない。
成人となった、中谷美紀演じる松子は中学校の教師となる。堅実な家庭に生まれた彼女はそのまま堅実な人生を送るかに見えた。
が。
ひとつの事件を機に人生は一変する。転落人生。それは加速度的にスピードを上げ、結局スピードを緩めないまま、人生を終える。
悲惨。と、ひと言に片付けることもできるかもしれない。“裏切り”、“満たされぬ愛”、“殺人”、“不倫”、“引きこもり”…悲惨と感じる記号は至るところにあるし、実際、端的に彼女の人生に接したらその想いは強く残るはず。
だが一方で、“生真面目な女教師”だったり、“ソープ嬢”だったり、“ヒモから離れられない依存女”だったり、“怪しげな隣人”だったり。それら記号を掬えばそれこそ作中ドラマに度々登場するありきたりな「2時間サスペンスドラマ」で、主役どころか脇役にもなれず、ワンシーン登場するだけの日の当たらない登場人物の顔も持ち合わせる。実のところスポットの当たらない人生。

しかし。
松子が幸せに見える。偽りなく。映像は偽りだらけなんだけれどね。
原色に彩られた毒々しいほどまでに華やかな映像の中、彼女の一途な思いに、満たされた顔に、錯覚を起こされているのは事実。だが、心の底で彼女を羨む自分が確実にいる。
「人の価値は人に何をしてもらったかじゃなくて、人に何をしてあげたかだよね」
よく言われる「愛は与えるもの?与えられるもの?」に近い。この問いに対する模範解答も建前も、厳然たる事実もどうでもいい。ただひとつ、彼女が与え続けたもの、与え続ける姿に、価値を感じることができる。与えてもらいたいと願いつついるばかりで、何も与えていない自分だからこそ。

前述した通り、記号だけ切り取れば、ひと言悲惨と言うのは簡単。彼女の人生を人づてに聞いたならばひと言、転落人生と片付けるかもしれない。
しかし、ノンストップに思慮浅く、間違った道を驀進し続ける彼女は間違いなく幸せだ。だから、ひと言には片付けられない。
本作…映画というある種の夢世界で彼女は輝き続ける。
確かに「ひとりは寂しい」と呟く姿にぎゅっと心が締め付けられることもある。
40歳を過ぎて引き篭もる姿に痛々しさもある。
そして、彼女の人生の幕引きとなる事件の真相には、切り裂かれるような痛みと、空虚な想いが伴う。これこそ救いようがない。
けれどそう思えるのは、彼女が少なくともそれまで幸せな人生を歩んでいたという証明にならないだろうか。幸せだったからこそ、最後の死に関わる事件とのギャップに、切り裂かれるような痛みを感じのじゃなかろうか。

加え、松子の甥たる笙の存在。
松子と直接的な接点はほとんどない。ないからこそ、きっかけとなる一枚の写真に当然のよう惹き込まれ自然と松子の人生を追うようなる。
無職。付き合っている彼女にも冗談のような理由で別れを告げられる。今時の若者。埋没した個性。ニュートラルな、無色透明な存在。自分を何色かに染めたいとは思う。でも思っていることすら気付いていないのは珍しいかも。だからこそ、個性しかない松子に無意識に、無性に惹かれる。
「(松子)おばさんのこと、神様だと思う」
これ以上の羨望…、いや想いがあるだろうか。観る側の立場を代弁する彼もまた心底、松子に憧れる。
もうひとりのキーマン、黒沢あすか演じるめぐみ。
彼女と、松子の戯れる姿がどれほど眩いことか。また、彼女の口から紡がれる松子の物語にどれほどの愛が溢れているか。男前っぷりには本当頭が下がる。笙も役得。これまた羨ましい。
松子と血の繋がりはあるが、生と死と隔たれた遥か遠い場所にいる笙。松子と血の繋がりはないが(文字通り)最も幸せな時期を共有し、強く精神的に結びついためぐみ。
めぐみに出会うことで、笙は精神的に松子に近付く。笙をフィルターにして観る側も松子に近付こうとする。

「“幸せ”なんて人それぞれ」
言い尽くされた陳腐な言葉も、松子に近付いてこそ重みがある。

蝶が舞い、踊り、月が喋り、天への続く階段を歩く。原色に彩られた世界はあたかもファンタジー世界かのよう。まあ、あまりに毒々しくあるので子供に向けられるようなファンタジーでないのは確かだろうけれど。
ただ、彼女の救いような華やかに人生を彩るのはこの映像に他ならない。ほんの小さな幸せに蝶が舞い、夕焼けを川べりから臨む彼女の後姿には哀愁と、仄かな愛らしさが同居する。結果裏切られることとなっても、そこに至る彼女の満ち足りた顔。
これが映画なんです。
どんな人生だろうと、人も羨むほどの人生へと(一時であろうと)転化させる魔法。
映像による嘘でもいい。でも、嘘こそが映画の持つ最大の武器。魔法。
嘘から生まれる真実だって、真実から生まれる真実以上にあったりするんです。

派手な映像に彩られるだけでない。半ばドキュメンタリーに近いトーンで彩られる、松子とめぐみの、友情を育むシークエンス。フラッシュバックで語られる松子の人生。彼女の幸せはこんなにもあったのだよ、と分かりやすく教えてくれる。
そして気付かされる。
彼女の求めた愛はいつでもあった。家族から。

ところで本作、明らかに『風とともに去りぬ』を意識。そういやスカーレットと松子って多分に被らない?
端的にいえば、アメリカのシットコム(本当、端的)、『ウエストサイド物語』などクラシックな趣がところどころ窺える。刑務所の場面は『ダンサー・イン・ザ・ダーク』。根底に『風とともに去りぬ』を置きつつ、新旧のミュージカル良いところ取り。
と言えるよう、音楽の使い方が抜群にうまい。時代を反映させた昭和歌謡から、BONNIE PINK、カエラ、AIら流行最前線の曲も見事溶け込ませるセンス。でも一番に心打たれるのはやはり「まげてのばして」なんだけれど。こればかりは作品の最も力強く確かなところに使われるのだからしょうがない。そして、最も力強く確かな存在である松子。を演じる中谷美紀。ジャンルを超えた芸達者が集まる中でまったく負けない恐るべき存在感。今さら自分が言うまでもなく、彼女の全てがまた注ぎ込まれている。
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2006年05月21日

『明日の記憶』

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『明日の記憶』 ★★★★☆

下手なホラー映画…否、上質なホラー映画よりも怖い。
今ある和製ホラーの隆盛の原因を探るに日常との直結は欠かせない。布団に入ってみたら…。シャワーを浴びていたら…。彼女の向こうに薄ぼんやりと見える存在しない人の影…。エレベーターに乗って背後に存在を感じたら…。畳に残る消えないシミ…。
そういう意味で、本作はまさに日常とがっちり直結。今ある日常の先に、そのまま本作と近い出来事が突如挿入される日が来る、かもしれない。そう考えた時の恐怖といったら。

認知症。アルツハイマー病。
当人からすれば、直面した時の感情を表すに一番近い言葉が“恐れ”(日常生活を普通に送れなくなることよりも、数十年培った記憶の消失に対する恐れ)であるなら、身近な人間からすれば“哀しみ”か。

認知症と診断された人間は、現代の医療技術では、進行を緩やかにすることはできても止めることはできない。徐々にフェードアウトしていく記憶。
対し、身近に寄り添う人間は?
先の人生がある。あるからこそ、本作における、認知症と診断された夫に寄り添う樋口可南子演じる妻・佐伯枝実子のよう、足を止め、その者に全面的に向き合うことができない。自らの人生は自らの足で歩まなくてはいけない。生きるために。ただ生きるためだけにも。
その中で誇大する存在…認知症の夫。一方、彼の記憶からは自分の存在が消されていく。
親しければ親しいほどに、自らの中に占める割合と反比例する形で自らを忘れられてしまう哀しみ。それは恐怖とも薄皮一枚のところにある。

本作における枝実子のよう、凛として、その者に接する自信は私にない。もちろん、世間体や自尊心が覚悟を作ることがあるかもしれないが、最後に頼りになるのはその者自身の強さ。慣れ、もあるかもしれない。人は苦難に直面、乗り越えることで成長する。

一方で、渡辺謙演じる夫・佐伯雅行の、直面時の弱さ。それでも進んだ先の強さ。というよりも自由。
これは、ひとりの人間として見た場合の精神的な脆弱さを言うのではない。自らの未来を失い、ある意味でそこで途絶えてしまったと感じることからくる恐怖。先に進むことを許されなくなった中で先に進むことしか許されない無常。
彼の歩む姿が、ただ感動を、共感を呼ぶのはそれが自らの姿だからだ。よほど達観した人でなければ、認知症と宣告された時、心の目を失う。どんな強気な人間あろうとも、むしろ強気であるほど弱い。ただ、怯えるだけでない。
人に接する時に生じる仄かな優しさに心揺れる。だから観る者も、香川照之演じる、クライアントの宣伝課長のある意味で容赦ないひと言に、水川あさみ、袴田吉彦ら演じる雅行の部下たちとの別れのひとコマに、揺れる。
また見えなくなることで、今まで当然としてあったものが見えなくなり、取り乱す。結果、彼は『もののけ姫』でも『カナリア』でも語られたシンプルかつ力強いひと言に拠りどころを見つける。結局、それしかないのだ。全てを剥ぎ取られ、それでも自分を肯定する言葉は。

認知症進行の過程の描き方が見事。
原作はあまりに飄々と、どちらかと言えば落ち着いた語りで人生の落日に臨む姿を描ききったが、映画は、映像は雄弁だ。
また、気を衒うことしか頭にないと思っていた堤幸彦の成長も忘れてはいけない。まさか彼の監督する作品で、星4つ以上付ける日が来るとは思いもよらなかった。
TV界の寵児として、またTVという枠の中では重宝がられた異端児も、映画という枠の中では暴走に歯止めが利かず、映画を自由と思うがゆえに作品世界を崩壊するまでに自由を謳歌し、自制を知らなかった。一方で、TVとまったく同じことをして新鮮味がまるでなく、映画監督として自らの立ち位置を見付けられないでいた。それは最新作『サイレン』でも顕著で、全て自らの頭の中で完結してしまっている感があった。(ただまだ頭の中で完結している分は良く、『ケイゾク』『恋愛寫眞』ではまったく完結できていなかった) 結果、彼の作品は自慰行為でしかなかった。
しかし本作はどうか。
渡辺謙の存在が作品内外で大きいのは確かだ。
彼の存在により、作品は大きくはぶれないし、堤幸彦も自粛を余儀なくされる。ある意味で、渡辺謙に身を委ねた。
その上で、主人公たる雅行が記憶を失い、遡っていく過程、進行する過程の中での描写の中で気を衒うのではなく、溶け込むように幻想的に思える描写が、認知症というものを浮き上がらせる。他者でなく、雅行自らの視線を強く印象付ける。
抑えられ、その中で自らを生かす形で、本作はまさに生きた。
観る者の“記憶に残る”作品に成り得た。
posted by やすゑ at 21:24| Comment(1) | TrackBack(2) | 映画 (あ) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

『陽気なギャングが地球を回す』

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『陽気なギャングが地球を回す』 ★★★☆☆

「何事も本気で楽しめるのは最初の10分」とは、某喫茶店マスターの言葉だが、本作も言葉そのままが当て嵌まる。
10分経ち、物語が一応の落ち着きを見せたら原作との差異、粗探しのスタートラインだ。そう思うことに自分自身嫌気がさすのではあるのだが…。
成瀬、響野、雪子、久遠…4人の陽気なギャングらが集結することとなった、とある銀行での事件。当時は加害者でなく、被害者。「俺たちならもっとうまくやれる」とばかり、(映像として)続けざま早々とスタイリッシュにおこなわれる銀行強盗。
原作で一気に読書に引きこんだ響野の演説は本作において一転、陽気なギャングたちの特殊能力紹介へと変わる絶妙な構成。
そのおかげで原作にある響野の、一貫しつつ脈略のない「記憶」に関する演説の魅力は損なわれるのだが、そのことも補って余りある、冒頭一気に淀みなく(多少の拙さはあるが)作品世界を紹介してしまう妙技には唸らされる。
併せ、成瀬、響野、雪子、久遠ら小説世界、二次元の世界の住人たちが一気三次元世界に映像として現出する興奮! 世界を回すは陽気なギャングたちで、今、我々の世界も彼らを中心に回っている。そのことを実感できる喜び。

ただ、そこまでである。我を忘れて世界に存分浸かれるのは。
映画と小説(原作)は別物。
過去に幾度となく、幾人もの人たちが使い、もはや使い古された言葉だ。ここは先人の言葉を尊び、以降、原作との差異から生じる不満をこぼすことはよそう。

本作における鍵は、どれだけ軽妙に、かつ洒脱に、ポップにコンパクトに軽快に一連の事件、及び付随する事象を淀みなく一気、語れるかどうかだ。
作中、放たれた銃弾がスローモーションで回転していく様をうっとりと眺めやり、銃弾に刻まれた文字にニヤッとさせられる場面があるが、それこそ本作に求められるもの、ある意味で凝縮。
ウェイトが恋話に流れることで、そこだけ他のテンションや時の流れと違い、緩やかにかつ落ち着いたものであることは気にならない。本作においては箸休めのようなもの。
だが、しかし。
なぜに心が躍らないのだろう。
彼らの起こす一連の騒動…四人の集結から始まり、裏切り、ワナ、演説、伏線、騙し合い、丁々発止な会話、どんでん返し、大円団と、構成の妙で一気見せなきゃいけないくだりが、あまりに雑然としているからに他ならない。一応はひとつひとつ仕掛けられたワナのような伏線を置いてはいるのだが、基本的に説明もしきれていないし、結実するものがあまりに杜撰。
例えば、車(グルーシェニカー)の扱い、あれほどに使えそうに登場しておいて、少なくとも、最後のラブパートのクライマックスの伏線となる銃弾ほどに役に立っていないのは解せないし、納得できない。
また、二転三転と主導権を奪い合い、果たして最後に誰が握るのかというクライマックスで怒涛のよう押し寄せる伏線の重なりはもう少し整然とはできなかったものか。あれでは観る側も、はたして誰が主導権を握るのかと予想する楽しみよりも、そのシーンに何が内包されているのか全て分かっている者(作り手)の傲慢、もしくは過信しか見えない。
杜撰な映像説明によって、最後、得られるカタルシスは求めようと望む半分にも満たない。
全てを見通せれていることからくる過信が全て。
話が入り組んでいるからこそ、語るべきものには念入りに取捨選択をし、構成していくべきであるし、それをコンパクトに、洒脱に見せようとするのは、次だ。

最後に。
「ロマンはどこだ」
うるさい。何度も何度も繰り返させるな。
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2006年05月13日

『約三十の嘘』

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『約三十の嘘』 ★★★☆☆

彼らとともに居たいと思ったから…。

“約三十の嘘”。
“詐欺師”。
“騙し合い”。
“会話劇”ならお任せ、“大谷健太郎”。

そんなキーワードを聞くうちにこれはコンゲームの傑作になるのではないか?と勝手な想像を膨らませていたのだけれど、これが(特に意味を込めず)肩透かしだった。
本作に於いて大事なことは、あくまで会話劇だということ。
何を於いても会話劇だということ。
ただ、どう役割分担がされたかは分からないけれど「脚本家は多ければ多いほど駄作になる可能性が高い」という勝手な法則を持つ自分にとって、原作者、監督、売れっ子脚本家、とそれぞれ立派な看板を持った三人がクレジットに「脚本」として名を連ねているのはいただけない。いつものように大谷健太郎のみであればより純度の高い会話劇を楽しめたのじゃなかろうかと。

「嘘」がメインテーマだと思われる本作であるが、実のところ真実しか語られない。
画からも。台詞からも。
何か含むところのあると思われるシーン、台詞、ともに演出によるところが大きいと思われるが、とことん真実として扱われる。そこに含まれるものは、観る側が最も容易く思うところに終始しており、織りなされる裏切りも、複雑に絡み合うのではなく、ひとつひとつ順を追って解かれていく。
最終的に誰が勝者で誰が敗者か?
考えるのに意味がない。本作はミステリじゃない。真犯人もいない。
騙し合いがないわけじゃないが重きを持つことはない。
心に何かを潜め停滞した人間たちが、たったひとり最後の最後まで嘘をつかないままいる人間をフィルターに通し、前進を始める物語。

本作に於いて、ほぼ密室劇であることが良くも悪くもある。
今までの大谷作品と言えば、同じく会話劇主流とは言え、足枷はなく、場所は自由に行き来していた。画面上だけなく、画面に映らない部分でも。
だが本作では肝心の詐欺の部分はカットされ、結果ほぼ密室劇となる。
おそらくは外の世界を描くことでより各々キャラクターの個性を出すことができたかもしれない。しかし、諸刃の剣で彼らの詐欺師としての部分ははっきり認識され、彼らの会話を純粋に楽しめなくなる。会話劇としては決定的ダメージだと言える。
だからこそ、とことん枷を付けることに作品の方向は決した。
保険として、膨らみを持たせるため、脚本に渡辺あやの参加があったのではないかと推測できるが、逆にストイックなまでの会話劇が邪魔される結果となった気がする。

プラス、マイナス。これほど混在した作品も珍しい。
しかし、そこに居たいと思った。

若手の芸達者が揃ったこともある。
椎名桔平、中谷美紀、妻夫木聡、田辺誠一、多少騒がしすぎるきらいはあるが八嶋智人、演技自体は全く下手であるが伴杏里…代わりとなる人間はいる気もするが、一方で彼らがベストのような気も―確信に近い意味で―する。
posted by やすゑ at 23:04| Comment(0) | TrackBack(1) | 映画 (や) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

『いま、会いにゆきます』

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『いま、会いにゆきます』 ★★★★★

ある雨の日。
一年前、亡くなった妻に似た女性が、梅雨はじめの雨の日、森の奥にある廃墟にひとり蹲っている。「自分が誰なのか」記憶を失ったままに。

これを見た妻を失った夫・秋穂巧と、忘れ形見である息子・祐司のふたりは、これ幸いと悪巧みを働かせます。
「あなたは私たちの妻(母)なのです」
見知らぬ人間の言葉に、記憶を失った彼女はただ「そうなんだ」と納得するしかない。状況証拠は揃っている。彼女はふたりに誘われるまま、彼らの家に誘われ、「決して家を出ぬように」と、半ば監禁状態に置かれます。
喜ぶふたり。
死んだ澪が還ってきた。
もちろん、死んだ人間が再び生前と変わらぬ姿で、しかも生者と何ら変わりなく存在することがあり得ようはずがないことくらいは知っています。まだ幼い祐司だったとしても。
彼女は、澪に似た別人。都合良く記憶を失っている。これ幸いとばかり洗脳し、自分たちの家族としてしまおう。せめて祐司の誕生日…初夏くらいまでは。

洗脳はうまく行きます。
彼女が、亡き妻とあまりにもそっくりなために、説得させるための材料はいくらでもある。
加え、彼らふたりの亡き妻への想いはいくら別人と分かっていたとしても、騙していると分かっていたとしても、はっきり認識しないまでに愛情(洗脳)を注ぐ。果たして彼らも自分たちがやっていることが悪しきことなのか、正しきことなのか、曖昧となり、次第に彼女を本当の澪として捉えていく。

巧は語る。
彼女の隣にいながら、決して交わることのなかった高校生活。
大学に入って初めての夏休み、理由を設けて「会いたい」と電話。
初デート。
そこでの、初々しく、温かいエピソード。
彼女を想っての別れ。
…再会…。

巧みの語る、亡き妻と共有した思い出を聞くうち、彼女は自然と巧に、“初めて”惹かれていく。自然と彼のキスを受け入れる。
「初めてのキスみたい」
当然です。初めてなんですから。

………とまあ、延々穿ったモノの見方で作品を観ていた部分もある。もちろん、こんな見方を全編、常にしていたのではなく、あくまで作品をそのままに受け止める時の余白を使って。
というのも、彼女の存在をそのまま「亡き妻(母)が雨の季節だけ還ってきた」と受け止めてしまうふたりに比べ、いくら説得力を持たせる、彼女が遺した絵本という材料があったとしても、彼女がさほどの違和感しかなく家族に受け入れられる様がどうしても信じられなかったからに他ならない。
彼女の存在以外の要素が、しっかり地に足ついていたからでもある。
彼女だけがふわりと浮いていた。彼ら家族にとってでなく、観る側にとって。

都合良すぎるかもしれない。
しかし、物語の解決編とも言えるエピローグで一応の解決を見る。
エピローグで先ず、物語が、恋愛の持つ多面性を見せる。先に語られた物語にはっきり分かる形で伏線が張られているので、これは予想の範囲だ。多少くどい気もするが、心地良い。
そんな気分になったところで、物語の鍵を握るエピソードがスッと挿入される。
彼女は、色々な意味で知っていた。
ここで穿った見方もできないこともないだろうが、心地良さを引っ張ってか素直に受け止められた。
彼女の、家族を想う気持ち、そして「いま、会いにゆきます」という言葉。
この瞬間幕であればどれほど心地良かったか。
画として近い『(ハル)』の“始まり”で終わる物語を想起させずにはいられない珠玉のラストを迎えられた気がする。その時間が、鑑賞後ずっと心に残った。
しかし、その後も蛇足に近い(しかしプロローグからすると必然の)エピローグが続く。否定する気はない。これはこれで、彼女だけでない家族の物語としての幕を得たからだ。親切に、優しく丁寧に。
ただ、欲を言えば潔さを求めたかったというだけの話。
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2006年05月11日

『燃ゆるとき』

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『燃ゆるとき』 ★★★☆☆

団塊の世代からすればそりゃ憧れるわな、というサラリーマンを中井貴一が、そのままのイメージで熱演。どれだけ叩かれようと、どれだけ苦難に立たされようと、どれだけみっともなかろうと、自分の信念を、自らの会社を、自ら信じたものを、信じ通す。どんな状況であろうと、中井貴一演じる企業戦士・川森は彼自身の髪型のようにまったく崩れないので半ばフィクションのよう。ただ、フィクションで良いと思う。中途半端に現実的であればあるほどに、それこそ周りを見渡せばいくらでも見つけることができるだろうから。

ボリュームある原作を、それこそ映画で取り上げられるカップ麺の製造よろしく、シンプルに無駄を排除した。コストダウンを目指すよう、無駄を削ぎ落とし、世界に挑む日本企業の現状を十分に見せ付けた上で、個人の物語として成立させる離れ業。多少、研磨されすぎて味気ない部分もあるが、それを補うのが個性豊かな役者たち。彼らもまた、川森同様に、苦難に多々され苦渋の選択を迫られようが、仲間を信じることを止めようとしない。
反発やぶつかり合い、一時的な諦念はあろうとそれは常に人を信じていく過程のひとつに過ぎない。馴れ合いとは違う、日本企業の家族的な繋がりを色濃く反映させている。
それは日本人同士の繋がりだけに収まらない。
とことん。徹底して見せつけられる。
もっとも顕著で分りやすく、裏表がないのが、川森たちがコストダウンの中でも品質を落としてはいけないと、麺を揚げるオイルにこだわる件。ラテン人気質溢れるアミーゴオイル社長と打ち解ける場面など、昔の日本映画に、近い場面をいくらでも見つけることができるだろう。彼ほど単純にはいかないが、川森のマネージャーである、サマンサ・ヒーリー演じるキャサリン、スティーヴン・クライヴス演じる会社の顧問弁護士ライアルなどもその渦に巻き込まれるわけだが、これはもう必然というより、世界を舞台にした現実社会の夢物語を構築するに欠かせないパーツとしての役割。キャサリンのエピソードなど全てを繋げる位置まで昇華されている。
また、伊武雅刀、長谷川初範、中村育二、木下ほうか、鹿賀丈史、津川雅彦、…これだけの曲者たちが一致団結する姿を見るだけでも希少的価値があるってもんじゃないか。
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『県庁の星』

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『県庁の星』 ★★★★☆

織田裕二の顔がシャープであるように、柴咲コウの顔がまたシャープであるように、両者の輪郭が明確であるように。ふたりとも、直線だけで似顔絵容易に描けそうであるし。

桂望実原作「県庁の星」をさして面白いと思わない。思わないが、小さな世界なり、現実に即した成長物語を内包したエンターテイメントとして成立していた。同時発生的に映像化の企画は進んでいたようだし、ひとつひとつパーツは十分あり、そこを基点に成長する可能性を秘めていた。スーパーの抱える裏トリビアや、行政と民間の分りやすい対立、弁当対決という勝負事を持ち込んでの持続…。
ただ、主人公の、映画では織田裕二が演じた“県庁さん”こと野村にしても、ひとつひとつのイベントにしても、物語の帰結にしても、いまひとつ掴みどころがなかったり、盛り上げるにしてもメリハリがなく上にはあるが低空飛行を続けていたり、ひと言で言えば曖昧、なのだ。

それを映画では、二極化にこだわった。
物語を引っ張るふたりに、恋心も芽生えよう人気のふたりを据える。織田裕二と柴咲コウ。お互い我の強い二人であり、行政と民間。エリートとパート。新人とベテラン。自我の強いこと以外、真逆の立場のふたりだから最初いがみ合うのは必然。もちろん、このキャスティングには、客を呼ぶ意図も大いにあっただろうが。原作の通り、若さが先立つ国家公務員と40歳代のベテランパートでは現実的であっても、普通に映像として惹かれないだろうし映えないだろうし。
加え、大まかに物語を捉えた場合、細かくエピソードごとに物語を区切った場合と、とにかく起と結だけを際立たせた。使用前、使用後としての野村の姿は然り。柴咲コウ演じるベテランパートの二宮アキもまた然り。
細かなエピソードで言えば、野村率いる多国籍軍Aチームと、おばちゃんパートたちから成るBチームとの弁当勝負。分りやすく(そして自然な形で)勝負を勃発させたかと思えば、そこに配された記号は、明らかな敗戦ムード、勝利に結びつくヒント、勝負を通しての団結。ここで、実際に県庁さんが何をしたかほとんど語られていない。あるのは、節々にある記号だけだ。
中身がないわけじゃない。そのため、逆に勝負としての意味合いよりもエピローグへ続く伏線としての意味合いが強くなった、野村とアキとのヒント探しがしっかり中を支えている。
作家性の強い映画であるよう、余白をふんだんに利用しているわけではない。その場合の余白は、自然な流れとして、渇望として、自分の想像で画を書こうとする観客に能動的な思考を促す余白だ。だが、本作は思考をまったくに促さない。そこにあるものが歴然としているわけでは当然ない。ないが、要らない。受動的にあって、まったくに流しても良い。監督がテレビ畑出身ということもあってか、受動的なメディアであるテレビを倣うかのように、物語は受動的であっても、全てを掴むよう計算尽くされている。
掴むべき輪郭が明確なのである。
そして掴むべき伏線も明確。

原作の一本筋な流れに比べると、それぞれの流れを並行して語ることにより、混線する可能性もあっただろう。決して単純な話でもなかったろう。
そうしたものを一度一緒くたにしてこれだけ明確な形として、構成し直したことは賞賛に値する。

全国公開される作品にこうした作品がかかるのは喜ばしいことだ。分りやすいフジテレビジョン印。こうした作品を入り口に日本映画ファンの裾野が広がる。
織田裕二は、分りやすく広く客を呼べる俳優という立ち位置となり、今回いかなる素材さえも自分のものにすることを証明し、ようやく新たな立ち位置で『卒業旅行』に追いついた。
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2006年05月10日

『ロボコン』

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『ロボコン』 ★★★★☆

冒頭、長澤まさみの舌足らずな感じと、オープニングタイトルの安っぽさ(狙い?)を見た時、正直ダメか…と思ったけれど、これがこれが。
比較されることの多い『ウォーターボーイズ』『ピンポン』とは、一風変わった青春時代を切り取った点では似ているが、演出はじめ他は全く違うベクトル、印象。
何よりも先ずロボット製作に頑張る4人が陰の方向にオーラを発していること。先に挙げた二作が結局はスポ根であり、いくらヘコもうとそこにはスポーツが持つ陽のオーラがあった。対し、こちらは理数系の青春映画、という惹句からも分かるとおり、インドアにありがちなイメージが付きまとう。良し悪しはともかく、それは演出にも実際のロボコン風景にも顕著で、総じて地味と言って良いかもしれない。
しかしそれが却ってウソのなさに通じるから不思議だ。

『ウォーターボーイズ』『ピンポン』にはある意味、青春を飛び越したウソがあった。別に否定的な意見でなく、それがそれら作品の面白味に繋がった。青春という名を借りたフィクション。もちろん強く共感した人もいるのだろうけど、どうしても自分を重ねるに難しかった。
しかし『ロボコン』は違う。
近い。自分が工業高校出身だから感じる身近さも当然多分にあるのだろけど、それを差し引いたとしても青春時代、普遍である何かがある。
例えば、ロボコン決勝前日。仲間で夜遅くロボット製作に力注ぐ合間、夜食のラーメンを皆で啜る風景。里美が言う。
「今日がずっと続けばいいね」
ありきたりな風景、と捻くれたことも言えるのだけど、これである。これぞ青春。青春という文字から想像できる青さや懐古とは違う。自分が確実に過ごしてきた、自分の一部と化して決して色褪せない風景。
このシーンに集約されるように、全編通して描かれるのは、仲間と、ひとりひとり力を合わせ、結束し、何かを成し遂げる至福の時間。瞬間。
派手さはなく、観客を煽る演出もなされていない。狙いか、はたまた天然かは分からないが、下手すれば抑揚をなくした演出は人の心に素直に入り込み、深くを抉る。
なぜかエンディング曲だけが妙に弾けているのだが、これは彼らが身体を使って表現するだけでは足りない心の爆発を表現した結果…と好意的に解釈しておく。

四人の仲間、それぞれが生きた、ひとりとして欠いていけないという思わせる脚本も見事。決して奇を衒っていないのだけど、それが却って昨今では新鮮さをましたかもしれない。

演じる、ムードメーカーで映画の主役である里美に長澤まさみ。前述した通り、冒頭舌足らずな感じで甘ったるく演じてこられた時にはどうかと思ったが、彼女の成長とともに生まれる真摯さと混ざり合い大いなる魅力になるから不思議。
小栗旬、伊藤淳史、塚本高史ら三人もそれぞれの役割を確実にこなしている。特に伊藤淳史の優柔不断さが好きだ。存在は薄いけれど、決して欠いてはいけない微妙な存在をうまく表現している。
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2006年05月09日

『リンダ リンダ リンダ』

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『リンダ リンダ リンダ』 ★★★★★

彼女たちを見せ物にした作品ではない。あくまで、彼女たちが過ごした時間を共有する作品である。彼女たちに姿を重ね合わせるも良し、彼女たちを少し離れた距離から見るも良し、自らの経験としてある時間を重ね合わせるも良し。
ただ、どちらかと言えばリアルタイムで彼女たちと姿を重ね合わせるよりも、過去の自分の姿を彼女たちでなくとも、その世界に重ね合わせられるほうが感情移入もしやすい。
「今を思い出になんてしない」と作中で女生徒が語るが、作り手は現実にそれを信じていない。いや、信じていないからこそ作られた空想世界(映画)の中にそれを実現しようとする。
だからこそ、本作は幕引きをしない。

この手の作品で近作近いものを探すなら間違いなく『ロボコン』だ。対外的な溌剌さよりも、仲間内との、得がたい彼女らだけが持ち得た珠玉の時間をただただ映し出す。
夢中になるあまりの時間の消失。激突。語らい。決して派手さはないけれど。
ペ・ドゥナ演じる韓国からの留学生・ソンが誰もいなくなった露店を独り駆け抜けるが、彼女たちの文化祭は、場にあるのでなく、仲間との時間の中にある。
くさい言い方をすれば、この時間こそ永遠であり、それを切り取ろうとするのが本作だ。

ただ、あくまでカメラは彼女たちを至近で捉えようとはしない。
ただ単純に、監督である山下敦弘の作風とも言えるが、実のところ、監督自身やそして自分とも重なるところのある、中心にいなくとも、素直に近付きたくて近付けなかった人間たちの視点であるのではないかと思う。だからこそクライマックス、舞台上で歌う彼女たちだけでなく、夢中になって取り巻く生徒だけでなく、一歩離れた場所から彼女たちを見上げる生徒さえも映し出そうとする。そこにいる人間のジレンマをも映し取ろうとする。
それを映画的でないと捉えることは簡単であるし、最近では矢口史靖監督の『ウォーターボーイズ』『スウィングガールズ』を絶対として、それと比することで批判することも簡単だ。どちらの切り口が正しいとは言わない。ただ、本作では彼女たちは刹那的に、彼女たちのみをフィルムに収めているのでなく、永遠に時間をもフィルムへと収められている気がしてならない。

タイトルの由来となり、作中のガールズバンド「パーランマウム」が奏でる「リンダリンダ」。原曲を歌っていたブルーハーツに、作中でこれまた歌われたり口ずさまれたりするユニコーン「すばらしい日々」、ジッタリンジン「プレゼント」。これら曲は、ある年代の人間にとっては、彼女たちの仲間と共有した時間と同様に、思春期の過程で心に刻まれ、絶対的な位置を占める名曲。
歌は記憶に結び付く。だからこそ、名曲の数々が、自分の記憶と結び付き作中から得られるだけでない、自分の中にある何を目覚めさせることでまた作品を輝いたものとしてくれる。

もちろん山下節も健在で、ソンを中心とした日韓のカルチャーギャップ、言葉のギャップに頼るところはあれど、淡々と、大笑いはしないけれど思わず笑みをこぼしてしまう、ちょっと毒も入った笑いがところどころに塗されている。
「パーランマウン」のメンバーそれぞれを演じるペ・ドゥナ、前田亜季、香椎由宇、関根史織から、容易に想像できる華やかさは決してない。紋切り型に高校生というイメージから得られる溌剌さもない。極端に振れる形で陰湿でも当然ない。ただ、漠然とした悩みや、切なさの裏にある喜びを噛み締めたような姿を見せ、カメラは写し取る。
山下組ではお馴染みの山本剛史が今回おいしい役どころ。他、湯川潮音、山崎優子ら本業ミュージシャンが本領発揮できる役どころで記憶に残る歌声を披露。甲本雅裕が教師役に抜擢されているのはブルーハーツとの繋がりからか。
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2006年05月08日

『転がれ!たま子』

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『転がれ!たま子』 ★★★★☆

自分の中では『ビッグ・フィッシュ』に連なる作品だと思っているのだけれど…。
人を喜ばせようと、自らが楽しくあろうと作り上げた御伽噺の典型。
ただし、御伽噺とはいえ、ニートだ、人間的成長だ、と現実的側面、流行側面、映画的側面も含んだ形として成立しているのはしょうがない。いや、むしろたいしたことだ。
けれど、個人的には成長譚として捉えたくない。捉えない。成長はドラマを成立させるための付加要素としてあるのであって、たま子の愛すべき人生の一端でしかない。そこから何かを学ぶことはできる。感じることはできる。でも、そんなこといいじゃないか。『ビッグ・フィッシュ』で親子愛以前に、親父の大法螺話に心躍らせたように、たま子の愛すべき人生を覗き見た喜びに身を浸したい。
言ってしまえば、たま子を取り巻く、(たま子のいないところでの)騒動はさほど興味がない。面白おかしくしようという、もしくは物語を進めるための後押しの意図が透けているので興醒めしてしまう。

たま子のキャラクターが秀逸。
実際に間違いなくあり得ない(よね?)のだけれど、演じる山田麻衣子の愛らしさも相成って見ていて楽しくなってしまう。微細な表情で演技させようとするでなく、大胆に分かりやすく演技させているのが正解。冒頭、基本としてある不幸顔のせいで、職場の男性が言うよう「よく見れば美人だけれどブス」ってのが、そのまんま受け入れてしまえる。
キャラクターもそうだけれど、たま子の関わる多くにおいて振り切れているのが作品世界を御伽噺として成立させている要因。明らか。だからこそ、鉄兜も、甘食への、弟子入りへの熱い思いも、転機前の極端な閉鎖世界も、転機の予兆となる幻想も許せてしまう。逆に、割に現実的な面が見えたりすると「おや?」と思ってしまうのだけれど。
総じて、ひとつひとつは奇形でも作品としては納まりが良い。良いけれど、奇形は奇形のままであることを望む自分も、多分にいる。

ちなみに、たま子の小学生時代を演じるのは坂野真弥。『茶の味』の彼女だ。二枚目だね。
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『エリ・エリ・レマ・サバクタニ』

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『エリ・エリ・レマ・サバクタニ』 ★★☆☆☆

浅野忠信演じるミズイ。中原昌也演じるアスハラ。
彼らの奏でる音楽が、不快を伴ったノイズにしか聴こえない。
それで、自殺を促すことで死に至らしめるウイルス感染―レミング病を抑制できると言われても…。たとえ生物学的にそうだとして頭で理解することはできても、感覚として拒否してしまう。
勝手な解釈をすれば、こんな暴力的で、非生産的としか思えないことにも存在が許されることを思えば、今ある世界はなんて豊かなのだろうと。死など考えもつかないだろうと。ウイルスを意思が抑制するだろうと。…本作で説明される解釈とはまったく違うけれど。

さらに、本作を観ていると悲観が生を生み、楽観が死を生む気がする。あえて二極化したが、この外には絶望があり、これは生にも死にも振れる。要するに、振り切れていない悲観は生への執着を生み、楽観は死に対する甘さを生むということ。
あえて述べるまでもなく、前者が、宮崎あおい演じるハナ。後者が、戸田昌宏演じる探偵のナツイシ。結局は、死を意識した上で、生きることを望まなくてはレミング病も、音楽も何も関係ない。とどのつまり、作品の外で自分自身、世界の解釈を完結させてしまっているのだけれど…。

ただ意外に思ったのは、思ったよりも世界がクローズされていること。世界規模の話かと思えば、辺境の地の話でしかないし。もちろん、そこから世界に通じていることは示されるし精神世界にも昇華されることもわかるのだけれど、表向きとしてはハナの救済の形を借りて、ミズイの物語を想像するよう構成されたシンプルなもの。
もちろんそれだけでなく、役者陣…とはいっても本業役者でない人も多いが、青山真治の関係者で固められ身内の祭りのような気がしてならないから。
そんな中、宮崎あおいの存在感は群を抜いている。とは逆に、ミズイの元恋人エリコを演じたエリカ(小田エリカ)の変貌ぶりに落胆は隠せない。『ワンダフルライフ』のイメージが強かっただけに。
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『ベロニカは死ぬことにした』

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『ベロニカは死ぬことにした』 ★★★☆☆

ベロニカ…真木よう子演じるトワと同様に「なんでもあるけれど、なんにもない」、何でもなく、変わり映えしない日常に絶望して死を選択する人はいる。芥川龍之介の遺書にあった「将来に対する唯ぼんやりとした不安」も、本作とは至る過程は異にするにせよ類するものであろうし、死を選択しないまでも死を考える人間ともなればさらに数は増えるはず。生きる目的も見出せずに生きることは苦痛でしかない。
だから彼女は死を選んだ。
冒頭、彼女の仕事での変わり映えしない日々、プライベートでの羽目の外しようと、二面性を端的に描くことで、日常に飽き、生きる目的を求め、求めた末に彷徨い失望していることを象徴的に知ることができる。ただ、それだけであればよくある話ではある。
彼女にはかつてピアノがあった。
彼女が自殺に失敗し、放り込まれたサナトリウムの中で、成長と(良い意味でも悪い意味でもの)退化を遂げる過程で明かされる。
彼女の場合、生きる目的がなかったわけではない。迷うことなどあり得ないくらい厳然と、あった。日々、成長を実感できる彩り豊かな世界があった。あったが、それしか見ていなかった。見えなかった。だからこそ、それを失った時に彼女が直面する世界は、ただ単純で変わり映えのしないモノクロの世界でしかなかった。
院長が話す「成長する石」の話が彼女にどれだけの影響を与えたか。青天の霹靂に違いなかったはずだ。見えなかったことが見えた。と同時に、他者から「それで良い」のだと認められた喜びを噛み締めたはずだ。彼女はピアノを通して、他者…母親からの評価を得ており、同時に失ったことに絶望を感じていたから。程度の差はあれども、人は他者からの評価で自らの位置を確かめるところがある。

サナトリウムでの彼女は、自分を肯定することを学ぶ。
サナトリウムの住人たちは、患者、医師、看護士問わず境がない。患者よりもむしろそれをサポートする立場の人間のほうが異常と思えることは多いし、演出として意図的にでもあるのだろう。
結局、異常と正常の境目など曖昧と知るように、自ら見知り作り上げた世界の線引きの曖昧さを知る。線引きされた世界からの解放は、変化へと繋がる。変化は成長へと繋がる。
それはサナトリウムの住人たちにも言えること。
彼女の存在がまた彼らを変えた。
風吹ジュン演じる、パニック症候群を患い全てを失い歩むことを止めてしまった元弁護士は、再び歩みだす。
中島朋子演じる、夢の世界に浸ろうとする主婦は、現実と直面することを決意する。
そして。イ・ワン演じる、夢を追いかけ、否定され、言葉を失い、自らの殻に閉じこもる道を選んだ青年をも変えていく。

正直言えば、物語の余白部分があまりに明らかなために、自分に近付けることが感覚的にあまりできない。できないが、意識的になら理解できる。
物語自体、登場する人間たちは感覚に依るところが多いが、観る側としてそのまま受け入れられない自分がいる。それが作品としての完成度によるものか、自らの殻によるものなのか…。
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2006年05月07日

『LIMIT OF LOVE 海猿』

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『LIMIT OF LOVE 海猿』 ★★★★☆

監督曰く「どんな新しい要素を入れ込もうと考えた時、TVシリーズで全てやり尽してしまった感じがした。(中略)最終的に「1」とまったく同じでいいんじゃないかと」と言うとおり、大雑把に作品を説明するなら「1」と変わらない。手を握りにいく男の物語。
なにせ原作「海猿」の描き手は、成長しない新米医師の物語として名高い「ブラックジャックによろしく」(特に限定されたスパンで話を終結させないといけないテレビ版がそうであった)の佐藤秀峰。それもありかなと。
しかし、本作における主人公、伊藤秀明演じる仙崎大輔が実際に成長していないということはないし(本質的なところは変わらないが/このあたりのスタンスは『踊る大捜査線』の青島刑事のほうに近いか)、時間は大きく経過している。アプローチの仕方も異にする。

前作『海猿』では、訓練生として潜水士となるまで、冒頭で彼らの若さ、無鉄砲さが強調され、後半でひとつの事件を通して一気に一人前の潜水士となる変化を描ききったが、本作では観客の心の準備を経ずに一気に事件へと突入する。そのわりに、そのあと事件内でのイベントフラグが些か少ない気もするのだが、それをまったく飽きさせないで見せきるのは監督の手腕か。

本作から『ポセイドン・アドベンチャー』『アポロ13』『バックドラフト』『タイタニック』『ダイハード』など、昨今の名立たる、ハリウッドのパニックアクションを連想させるのは簡単だ。それら素材をどうリミックスして新たな作品に仕上げるか、その手法に対する是非は毎度上がるが、観客の胸の多くを掴み、作品が持つ力、メッセージが充分なものであればなんら問題ないはず。フジテレビと東宝のタッグで近く始まりを探すなら『踊る大捜査線』からであり、その成功を受けての正統な二代目がおそらく『海猿』だ。
特徴として、クライマックスの連続。特に本作は事件突入があまりに早いので、これひとつで残りの時間を乗り切れるかと勝手な心配もしたが、余計なお世話であった。
大型フェリー「くろーばー号」座礁を発端に、沈没へと刻一刻と悪化の一途を辿る事件は、息つく暇もなく、緊張の連続。ただ、言葉通り緊張が寸断なく続くのであればそれが平均値となり、見せ場が見せ場としての機能を果たさなくなり作品としての面白さは半減するのは当然のこと。本作でそれを感じさせないのは、細かく緩急、もしくは静動がキレをもって機能しているため。
動が、フェリー内に閉じ込められ脱出を試みようとする仙崎や、佐藤隆太演じる、(大輔のバディでもある)潜水士・吉岡ら取り残された四人であるなら、静はいたたまれぬ、動くに動けないもどかしい思いを抱えたままの、ほかの潜水士、対策本部の面々、そして加藤あい演じる、仙崎の恋人である環菜。
急が、閉じ込められたフェリー内での四人の命懸けの脱出と、緩は時折挟まれる四人の、笑いをも含んだ息をつかせるやり取り。
手に汗を握るだけでない。息を呑み、悩み、切なく、笑い、息吐き、吸う。そして願う。渾然一体となり、作品は「1」と同じく、ひとりの手へと向かう。
特にうまいのは、フェリー内で起こる肝心な部分を隠し、観客をフェリーが沈没して行く様を、ただ手をこまねいて見守り、残された仙崎たちの力を信じるしかないフェリーの外にいる者たちと同化させることにとことんこだわること。そこには、付け入る隙のない、ただ信じることだけが残されている。
逆に、そこにいる浅見れいな演じるテレビ報道局員をもう少しうまく使えば、多くのエキストラを配した一般市民まで取り込み、さらに世界は広がったのだろうけれど。ただ、そこまで望むのは高望みであり、また別の見方をするのならば、彼女を配することはさほど意味がなかったと言える。(彼女と、荒川良々演じるディレクターに妙に存在感があるので)

本作は一応の完結編を謳ってはいるが、続編の実現の可能性は、望む声が高くなれば充分にありそう。少なくとも『踊る大捜査線』に比べれば、やり易かろう。監督も言外に匂わせているところもあるし、伊藤秀明ほか主要面子も、引っ張り出すに容易そうであるし。
まだ、終わらない。終わらせたくない。

にしても、環菜の「チェックイン」には負けた…。
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『海猿』

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『海猿』 ★★★★☆

公開当時である夏、先に観た、『デイ・アフター・トゥモロー』が納涼にちょうど良いとしたら本作は真逆。夏に、さらに暑さを増す、情熱をストレートに表現した作品。
今どき日本映画では珍しいくらいだが、このあたりのシェアはハリウッド映画がしっかりと握っているので、今回本作に出合い、ああ日本映画に近頃このジャンルがなかったな、と気付くくらいである。また、『踊る大捜査線』のスタッフが作り上げていることから、その路線と言えなくもない。要するに、ストレートな熱血(青春)モノであり、エンターテイメント性溢れる一品。

前述した通り非常にストレートな物語、アプローチであるのだが、前半と後半とではまったく違った向きにベクトルが向いている。
前半は青春群像劇の趣で、バカバカしいまでの真っ直ぐさをバカバカしいまでに一生懸命やる。それが周りにはどれだけ奇異に映ろうとも。言い換えるなら、その体育会系な一生懸命さが突き抜け、可笑しさを醸し出す。特に水槽での素潜り対決や、訓練での鬱憤を晴らすかのように獣と化して街中へと散っていく姿など、その真摯な眼が逆に笑いを巻き起こす。
体育会系のノリに、中に入ってしまうと半ば付いていけないところもあるけれど、こうやって客観的に見るのは大歓迎だ。そんな立ち位置を認識させ、まさに自分と同じく重ね合わせることができるのが、加藤あい演じる、介護のため休職してまで田舎に戻ってきているヒロインの環菜。こうして客観視できる対照的な冷静な立場を置くことで、彼らをより際立たせることができるし、また観客が同一視できる人物を置くことにもなる。このあたりのバランスはうまい。常道ではあるけれど。

ただ、後半の展開は、よりハリウッド的になり過ぎているかなと。真っ直ぐに、見慣れた同じ形として。比較に上げられる作品として真っ先に、デ・ニーロが出演していた『ザ・ダイバー』が上がるが、もちろんまったくに同じであるはずはない。ただベクトルやトーンは同じ。その真っ直ぐさを、クサいと思わせるまでに昇華させてしまっている。このあたりクサさが、クサさとして残ってしまうのが、日本映画としてこのタイプの作品が熟練していないところで、もう一呼吸置いてくれるとありがたかった。

冒頭に挙げられる「タッグを組み海中へと潜り、ひとりが海中深いところで身動きできない状況で、ひとりが戻れる分しか酸素残量がない場合もうひとりはどうするか?」という問い掛けにも、あまりにもストレート過ぎる。優等生過ぎる答えしかできないのが惜しい。
もちろん、それに相応しい満足と、続く感動は当然あるのだけれど、一方でもうひと捻りあったら、と思う。
ただ、これは観終わってから冷静になって思うことで、実際には最初から飛ばしてくれるので作中にはすっかり嵌まり、その時々はただ手に汗握っている自分がいたりするのだけれど。
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2006年05月06日

『予感』

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『予感』 ★★★★☆

ポラリスのオオヤユウスケ、クラムボンの原田郁子、ハナレグミの永積タカシ、の三人からなるボーカルユニットohana。彼らのデビューシングル「予感」のPVを撮ることになった廣木隆一が、3人と「なら映画にしよう!」と盛り上がり製作されたのが本作。
上映時間51分。長編映画と言うには短い。けれど十分映画な仕上がりを見せたショート・ムービー。もちろん、中ではohana「予感」を一曲まるまる流さなくてはいけないし、物語は曲とリンクしなければならない。となると、物語る時間もテーマも制限される。
“予感”という言葉(もしくは曲)から端を発することになる本作は、曖昧なものを曖昧なものとして、しかし確実の心に残る物語を紡いできた廣木隆一の得意とするところ。そういえば、傑作『ガールフレンド』も“愛”“友情”“エロス”をテーマに、女性を主人公に据える、という縛りがあった。ならば、本作の監督に廣木隆一は間違いない。テーマは“予感”。問題は…時間だ。
ここで廣木隆一は思い切った手段を取った。
モノローグから、物語が立ち上がる段までばっさりと切り捨てた。
だから三本の線から成る物語はどれもすでに進行形だ。
これがohanaの歌う「予感」と実にマッチしている。歌詞で“突然の心変わり”“とまどったまま”とあるすぐあとに、“出会った”“恋におちていく”と、歌詞を全て追えばひとつの恋物語を語っていると取れるものが、こうして端的に上げると、新しい恋の始まりを予感させるものとしても受け取れる。過去を振り返るではない、日常にふと訪れた時間感覚のなさも感じられる。穿った読みをするなら時間軸を意図的に無視しているようにも思える。浮遊感が心地良い。
こうした立ち位置の不確かさがそのままに映画に反映される。
物語の始まりを意識し始めた途端に、これは佳境、もしくは転換期にすでに達していると気付く。
オオヤユウスケ演じる家庭教師・花田は、家庭教師先の姉妹の間で恋心を揺れ動かしている。原田郁子演じる工場勤めのハナは、自分の恋の芽吹きの可能性を横目に見ながら、自ら働く会社が傾き、哀しそうにする社長を見つめる。永積タカシ演じる漫画家・花太郎は、隣に住むヘンなオヤジと、美女との別れ話に聞き耳をたてる。
どれも、物語は動き始めている。彼らは動き始めている。彼らをそう導いた過程は語られない。語られないからこそ、無限に想像は広がる。それもまた、厳選し、端的に言葉を乗せ想像する余白を多く残す歌詞と近い。

それにしても、配役の妙。
観るまで忘れかけていたが(というか脇役の豪華さに目を奪われていた)、主演の三人は音楽のプロであっても演技のプロではない。演出する廣木隆一の巧みさもあるが、何より配役の妙で彼らを浮き上がらせない。
最もニュートラルな佇まいのオオヤユウスケの周りに、貫地谷しほり、河井青菜。家庭教師先で教える女子高生の妹(貫地谷しほり)、さらに姉(河井青菜)に恋心抱き抱かれるというおいしい役どころ。あのシチュエーションで貫地谷しほりに迫られるのは男にとっては拷問。反則。本作の柱とも言える彼のエピソードには、大森南朋も関わり磐石の態勢。
続いて、原田郁子。物語の地味さ、彼女の醸し出す穏やかさに合わせるよう、わりに地味な脇の配役であるが、ここでもっとも関わるのは社長を演じる大口広司。とはいえ、彼の場合、どちらかといえば寡黙に通すので少しでも彩りを施そうと会社同僚に山田キヌヲ(少しの出番ながら抜群の存在感!)、社長夫人(と言うほどに華やかでないけれど)に石井苗子。
最後に、永積タカシ。彼の個性にプラスアルファされたエキセントリックさ。与えられた役どころはコメディリリーフ。もちろん、彼にも恋の予感があり、そこに今井祐子が配されるが、今井祐子との、そして永積タカシとの相手役、三角関係の一角に竹中直人。作中からはみ出すぎりぎりのところで笑いを生む才能は彼の出演作から察しても間違いないところ。永積タカシとのやり取りは笑いと同時に和みを生み、ここばかりは空気も緩む。

進行形の彼らの日常、加速がさらにかかったところで物語の幕は閉じる。当然、その延長線上に何かまたあるのだろうが、それもまた観客の想像に委ねたまま。
ohanaのPVとしての役割を果たす歌の部分はエピローグの直前に挿入される。結局、PVとして端的にこの作品が流れる箇所がここであるよう、少なからず物語との差異を感じるが、こればかりはしょうがない。ただ、廣木隆一が作り出すことを得意とする空気の感じはそのままなのが嬉しい。
このあと、エピローグへと続くがこれはおまけみたいなもの。作中のキャラクターと、現実での彼らとの錯綜感。まあ、突然饒舌に、語りすぎている感は否めないけれど。
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『チェケラッチョ!!』

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『チェケラッチョ!!』 ★★☆☆☆

思い描いていたほどに酷くはなかったが、客(ターゲットとなる若年層)を呼ぶに安易な記号、発想が透け過ぎている。だから作中の彼らがいくら熱くなろうが、常に冷静な自分を認識できるため世界に浸かれる瞬間は訪れない。

今どきの若者を中心に据え、彼らの周りに起こる騒動を描きつつ、核心で爽やかな青春劇、純愛を描く。今時の若者を描くに分かりやすい記号を描き、同時に純朴な彼らを描くともなると、それこそ分かりやすく、振り切れれば『Deep Love』にでもなるのだろう。
しかしここで「沖縄」というフィルターが役に立つ。沖縄という風土が持つ緩やかさ、奔放さが“今どき”“純朴”と反発し会うことの多い記号を、ファンタジーに振り切れることなく成立させる。(『Deep Love』は明らかにファンタジー、もしくはコメディ)
そういう意味で、おそらく安直に浮かんだ“沖縄”という記号の選択は予想以上、もしくは予想通りの効果をもたらしている。が、市原隼人演じる透はじめとする沖縄弁に違和感が強い。主要キャスト4人がひとりとして沖縄弁を生来持っていないことを指摘するのではない。実際に正しい方言を使えているかどうかを指摘しているわけではない。もちろん、役者たるもの作品に合わせ自らを変貌させねばならないと思うが。
近い年代の若者を描き、方言が重要なキーワードとなった『きょうのできごと』『スウィングガールズ』に違和感…というより嫌悪感がなかったのとは対照的に、彼らの発する沖縄弁に嫌悪感がある。そこにある軽さ、からだ。

作品のターゲットとなる年代から求められるのは“格好良さ”だけ、他は何をやっても許される市原隼人についてはこれ以上語ることはしないが、彼らの幼馴染である、柄本佑演じる暁、平岡祐太演じる哲雄、井上真央演じる唯は好感。ただ、透の憧れの人、渚を演じた伊藤歩はミスキャスト。本作でなら本来彼女が演じるは、透たちの側でしょう。『きょうのできごと』での彼女がそうであったように。
と、それだけが原因ではないが、実際、透の渚への恋心は、この年代が持つ大人の女性への憧れ、の平面的なイメージ以上に力を持ち合わせない。
そもそも彼が、彼女への熱い想いを一手に曝け出す場としてあるクライマックスのライブに力がない。というよりも、本作のキーワードであるラップに想いが全くに乗っていない。音楽を中心に据えた作品で、作品と切り離してさえ武器となる音楽にこれほどに力がないのはラップというもの自体、言葉に重さが必要とされるからか。例えばこれがスタンダードであるなら語らずとも曲の持つ歴史が語ってくれるだろうから。
透自身の想いは当然の如く歌詞に乗っていない。彼の歌う歌自体に問題があるわけではない。彼のそれまでのふざけた様を見、その彼が曲に想いを乗せたにしては美辞麗句、彼のパーソナリティからは到底出しえない言葉が続くため。もっと下手くそでいい。乱雑でいい。格好悪くていい。が、彼に求められた“格好良さ”がここで枷となる。普段、能天気でありながら締めるときは締める。そう持って行きたいのは分かる。分かりすぎるがゆえに“ねじれ”も分かり易過ぎる。ラップに乗せた言葉に近付くには彼は能天気過ぎたし、彼を表現するには奇麗過ぎた。

ただし、徹底してターゲットとなる若年層に媚びた作りは感心したもの。主要キャストに加え、玉山鉄二、陣内孝則、ガレッジセール、KONISHIKIと、彼らにとって豪華と分かり易いキャストを集め、一方で、(ミスキャストではあるが)伊藤歩、平田満、松重豊、と実のあるキャストもそつなく配している。
監督、プロデューサーとテレビ畑にどっぷり浸かった者らしくマーケティングは完璧。実際に客は呼べているよう。ただ、あまりにも安直さが透けているだけ。このマーケティング力が今の日本映画の隆盛を作る一翼を担うことを否定はしないし、その中に佳作もある。がしかし、監督に個性でなく万能さが求められ作家性に頼ることない以上、せめて物語に頼った作品を仕上げてもらいたい。記号だけであとに何も残らないものは、要らない。
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『小さき勇者たち GAMERA』

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『小さき勇者たち GAMERA』 ★★★☆☆

「平成ガメラ三部作」より六年の月日を経て、ガメラが帰ってきた。
「平成ガメラ三部作」は、怪獣マニアだけでなく、普段怪獣映画を観ない者にも評価された、怪獣映画としては比肩なき傑作。しかし、ターゲットとして怪獣マニアは熱狂し、彼ら以外の大人をも絶賛した一方で、子供たちは切り捨てられた。子供たちの味方であるガメラが子供たちを、ある意味見捨てた。そして怪獣映画の金字塔を打ち立てた。このことは、映画版「クレヨンしんちゃん」にも重なる。
テレビからのおバカ路線を引き継ぐ形で当然スタートしたが、転機となったのが『クレヨンしんちゃん 嵐を呼ぶ モーレツ!オトナ帝国の逆襲』。昭和への郷愁を大いに誘ったこの作品は、まさに、昭和に幼少、青春時代を送った大人のための「クレヨンしんちゃん」。置いてきぼりを食らわされた子供たちを尻目に大人たちの評価を一気に高め、これまたアニメ映画を、アニメ映画ファンだけでなく、普段アニメ映画を観ない者にも目を向けさせた。監督の原惠一は続く、『クレヨンしんちゃん 嵐を呼ぶ アッパレ!戦国大合戦』で、その年をも代表しえるエンターテイメントの大傑作を生み出し頂点を極めた。しかし翌年、原惠一は事情により降板。水島努へとバトンタッチされた『クレヨンしんちゃん 嵐を呼ぶ 栄光のヤキニクロード』は十分に大人に鑑賞に堪えうる佳作ではあるが、少なくとも原惠一が描いたベクトルを一度リセットし、「クレヨンしんちゃん」を子供たちに還した。
本作…『小さき勇者たち GAMERA』の立ち位置を、「クレヨンしんちゃん」に重ねるなら『クレヨンしんちゃん 嵐を呼ぶ 栄光のヤキニクロード』である。
ガメラは還された。子供たちに。

本作におけるガメラは、そのままヌイグルミ。
「ガメラ」シリーズと人気を二分する「ゴジラ」シリーズにおけるミニラのように、クリッとした目玉が愛嬌たっぷり。富岡涼演じる透の見守る中、孵化したガメラ、子ガメ時代のガメラを演じたのが実在するカメ(ケヅメリクガメ)だけあって愛くるしいのは当然のことだが、成長してからの姿も愛くるしさはそのまま。そこに「平成ガメラ三部作」におけるガメラのような、凄みはない。
というよりも、本作におけるガメラは主役でさえもないのだけれど。タイトルでもサブタイトルに追いやられているよう、あくまで脇役。主役は、涼や、夏帆演じるヒロイン麻衣、涼の遊び仲間、そのほか子供たちである。
ガメラを育てるエピソードなど、そのまま、動物や昆虫などを飼おうとする子供たちの体験がそのまま反映されている。例えば、ガメラを飼うことを子供たちの秘密とするエピソード。大人たちを信じないわけではない。秘密を持つことへの喜び。そんな彼らに対し、大人は羨ましさと疎外感を持つ。また、漫画や彼らのする遊びに今の子供たちが象徴される。(一方で、性別の違う幼馴染同士の家が極端に隣接し、お互いの二階の窓越しに行き来や物の受け渡しができるという、むしろ懐古的な住風景が用意されてもいるのだが)
津田寛治演じる涼の父親や、寺島進、奥貫薫演じる、麻衣の両親たちも大人としての立ち位置を十分に認識させつつ、あくまで子供たちのやることを頭ごなしに否定しない。だからこそ、本作の敵(と言うと大袈裟か)と呼べるのは、頭でっかちで盲目的、典型的に融通の利かない大人の代表である、田口トモロヲ演じる一ツ木参事官や石丸謙二郎演じる雨宮教授かもしれない。

主人公たる子供たちは、現実的とは思えない手段で、大人と、ガメラが直接戦うこととなる海魔獣ジーダス。もちろん、手段を考えるならいくつもある中で現実的な手段も講じられたことだろう。が、あくまで子供たちの映画としての本作は、拾ったカメがガメラだったというおおよそあり得ない起点からのファンタジーを貫き通す。
ひとつに、不思議な力を持つ赤い石。ひとつに、子供たちだけに通うテレパシーのようなもの。彼らはこれらを拠り所、もしくは手段にして戦う。子供じみた、と断じてしまうのは簡単ではあるが、これはこれで良いのではないかと思う。ただ、あくまで“不思議な力”という言葉だけ頼っており、例えば赤い石にしてもどんな力を持つか、どのような過程を経て受け継がれていくのか、など多少の説明があってほしかった。説明不足にもほどがある。

そんな中ひとつ、明らかに子供映画の枠から飛び出ているのが、海魔獣ジーダス。
ギャオスの肉片を食べた爬虫類が変異巨大化して生まれたと説明されているが、ギャオスの面影はなく、むしろ恐竜。T-REXやヴェラキラプトル、トリケラトプス、ステゴザウルスなどメジャー恐竜の類ではなく、ディロフォサウルス。『ジュラシック・パーク』に登場した、脚色された形でのディロフォサウルス。エリマキトカゲに似た小型の肉食獣(実際には中型であったらしいが)と言えば分り易かろう。
さらに、口からは銛のよう、長く伸び武器となる舌を出すわ、おおよそグロテスク。個人的には血肉踊るフォルムであるが。(ただ、動き出すと着ぐるみらしい妙な愛らしさはある)
posted by やすゑ at 23:38| Comment(0) | TrackBack(2) | 映画 (た) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

『輪廻』

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『輪廻』 ★★★★☆

ホラーとして見ればある意味完成されていると言える。
怖さの度合いとかでなく、安心して観ていられるというか。演出や物語でなく、少し漠然としているかもしれないが、色調、雰囲気から。
『呪怨』が意味あと付けでの、凶暴なまでに無方向に突き進む恐怖とするなら、本作は先ず意味有りき、の整然とした恐怖。
“輪廻転生”という題材というか思想、有りき。
しかし、自体の意味は世間に浸透していようと具現化されたものではない。それを地に着かせるために、先ず現実にあった事件を立ち上げ、起点にし、劇中劇という形でさらに身を纏う。ただ、巧みに輪郭はぼかす。それを補い、さらに身を纏う形で劇中劇の役者たち、起点となる事件に吸い寄せられるよう取り込まれる人間たちを、唯一形あるものとして提示させる入れ子のような構造。

35年前にあった大量無差別殺人。ひとりの殺人者と、11人の被害者。
作中で、事件を題材に映画が作られる。椎名桔平演じる映画監督・松村がメガホンを取る「記憶」という作品。そこに役者として参加することになる、優香演じる新人女優・杉浦渚ら12人の役者たち。
35年前にあった事件は、余計な情報を与えられず、おぼろげに、しかし確かに存在する。演じる役者や監督たちは目に見え存在するが、仮の姿を演じるに過ぎない。
彼らは、35年前と現在を一方向で映し出すに過ぎない。
それを結ぶ存在として、輪廻転生した者たちがいる。
彼らに当然自覚はない。(一部を除いて)
だが、彼らがその自覚を取り戻した瞬間、一般になら輪廻転生と聞き、「昔、私は何々だったのよ」と話のネタにしかならないものが、恐怖へと変わる。前世での最後の記憶がイコール恐怖だからだ。
事件自体は恐怖を想起させるものだが、イコール恐怖にはなり得ない。恐怖は、劇中劇のタイトルにあるよう“記憶”にある。
あくまで恐怖の本質、物語の核心を見抜かれようとはしない。

うまいな、と思うのはこれ大まかに捉えて決して特出した題材でないからこそ。
それこそ「本当にあった怖い話」にあるような題材。それを、中心に位置する事件自体を幾重に囲みながら二重三重と身を纏う構造にする。ありがちが故に次第に進行していく新たな恐怖を鵜呑みにさせ、実は肝要となる部分から目を逸らそうとする。事件をまったく別角度からアプローチしていく香里奈演じる大学生・木下弥生の存在もそう。恐怖を前に、彼女の存在の意味を深くは考えない。
縦方向にも横方向にも、35年前の事件から派生した物語や人間が配置されるため、リアルタイムで何が進行しているのかを掴みきれない。否。掴みきれていると錯覚するが、元から勝手に想像し得る発想でしかない。

個人的なことを言えばさほどの恐怖は感じないで、逆に“サプライズ”に至るまでの道筋や雰囲気に思わずニヤついてしまい、感情を言葉に置き換えるなら楽しくてしょうがないのだが、同席した連れや一緒に退場してきた人たちの話を聞くと、『呪怨』と同じく、恐怖自体が生活に密着しているので怖い、そして、気持ちが悪い、らしい。この手の作品から受ける生理的反応は人によって極端に左右したりするから一概にどう、と断じるのは難しいが、一応のところ着地点を見付けるのなら、怖く、気持ち悪いのだろう。
一見、無作為に無差別に選ばれた犠牲者たちの恐怖を描ききった『呪怨』も結局そういうところが評価されてのことだろうから、清水崇の真骨頂健在、と言えるかもしれない。

キャスティング的にも一見驚きを持って迎えるだろうけれど、実のところそうでもない。
『呪怨』にしても、メジャーに成り上がった途端、アイドル(女優)の奥菜恵、酒井法子がキャスティングされているわけだし、普通にホラーといえばメジャーであるほど、玄人受けする女優を廃したりするもの。
ただ、優香がそれなり器用なのは知っていたが、ホラー作品にこれだけフィットするとは思わなかった。キャラクターの個性が一方に振り切れているので形にしやすいのはあるにしても、彼女のバラエティ番組から受けるイメージを完全に覆しての熱演あってのこと。
香里奈、椎名桔平らは思ったとおり。演出のおかげか、昨年一気に映画での露出があるも、新人としての拙さが残った香里奈もそのことをさほど感じないまま。
また、ホラー作品常連となりつつある、松本まりか(というか『ノロイ』の印象が強いだけだけれど)、清水組常連の藤貴子、諏訪太郎の活躍も嬉しい。
posted by やすゑ at 23:37| Comment(0) | TrackBack(0) | 映画 (ら) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

『かえるのうた』

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『かえるのうた』 ★★★★☆

『たまもの』と続けざまに観たのだが、この手の作品本当無駄がない。無駄がある…とすれば、必要以上に予定回数挿入される濡れ場なのだけれどそれを否定しては本作も成り立たない。
女性ふたりの浮遊感のある日常。と捉えることもできるし。
女性同士の友情。と捉えることもできる。
自らの居場所(帰る場所)を探す女性ふたり、とタイトルにある「かえる」を、“帰る”と“蛙”、ダブルミーニングで捉えそこから作品のテーマをも捉えることもできる。
一緒くたにしたのが本作。といってももちろん複線が並行しているのでなく、同一線に複数の意味を持たせ語られるために、一見シンプルであるのに深い。深いけれど、それを強く主張したりしない。

漫画喫茶で読みたい本を取り合い喧嘩にまで発展…という最低の出会い方をする、向夏演じる朱美と、平沢里菜子演じるきょうこ。しかし、漫画喫茶から追い出された帰り道、不思議とふたりは意気投合。
裁縫工場で働く朱美。将来自分の作った服を着させることを夢見て、夫たる(実は彼が夫であることを観終わったあと知った)、吉岡睦雄演じる良男と暮らしている。意図的か、吉岡睦雄の演じる役の名前は『たまもの』と一緒。脱線ついでに彼の話をもう少しすると、『たまもの』ではいかにも自堕落でやる気のなさそうな郵便局員を素のように演じていたかと思えば、本作は一転、髪の毛を伸ばし一見しもてそうに、髪型や顔つきだけでなく所作までも変わっていたのには驚いた。
話を戻す。朱美と良男の夫婦生活。良男は平気でゴスロリの浮気相手、七瀬くるみ演じる渚を自宅に連れ込み、それを朱美に目撃されたとしてもどこ吹く風。
一方のきょうこ。昼夜逆転の生活を送り、夜は漫画喫茶で漫画を読むか、援助交際で身体を売り、昼に寝る生活。ただ、彼女にも夢があり、漫画好きが高じ漫画を描くようなり、それでいつか生活ができたらと思っている。

朱美ときょうこ、外見一見して両極端のふたり共通するのは、自らの居場所の不確かさ。手の届くぎりぎりの距離にある夢。ふたりが互いを必要とし、一方で反発しあうのは、単純に漫画好きとしてもそうであるし、不確かな今を確かめ合える同士としての親近感と、お互い鏡を見るような不快感が同居しているから。
不起用ながら幸せを求めるふたり。彼女たちは道を間違いながらも確実に距離を縮め合い、今をひたすら生きていく。
そこに悲しい現実が襲い、二人の仲は現実の距離的意味合いで裂かれる。

この時点まで、朱美の素性に余計な説明は加えられないし、彼女の夫である良男…彼が夫であることが最後まで知り得なかったよう、彼についてはさらに説明がない。彼女の女癖の悪さだけが記号として扱われ、またこの手のプログラムピクチャーに必要な、男優としての役割のみ特出される。女性ふたりの距離の縮め具合もただ漠然としていて確たるものとしては提示されない。
しかし、それらも朱美ときょうこ、ふたりが裂かれてから以降のくだり、驚異的な余白の使い方に比べれば驚きに値しないのだが。
あくまで寓話。
彼女たちの境遇、夢、そして今は記号として力を発揮すれば良い。長い道程を一時間程度の時間で語ることなど到底できない。だからこそ時間をも、現実をも超越し、踊る。万事、結果オーライ。全てを肯定するかのように。歌われるシンプルな「かえるのうた」(すごくいい)。全てを超越しての突き抜け具合。これこそ映画だと感じる最高の瞬間。

ところで、『たまもの』でも主人公たる女性の部屋がボウリング一色に彩られていたように、本作でも朱美の部屋が蛙グッズ一色に彩られている。蛙の気ぐるみを朱美ときょうこ、互いに着まわしてくれるサービス付き。これらがとことん可愛らしい。
posted by やすゑ at 23:35| Comment(15) | TrackBack(3) | 映画 (か) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

『たまもの』

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『たまもの』 ★★★☆☆

盲目。狂気。無垢。
どの言葉が一番にしっくり来るのだろう。
ふとしたきっかけで知り合った郵便局員を、時に執拗に、時に盲目的に。別れる意味も分からない。心の隙間を何かと思う。自ら言葉を発することない無垢な女性がひたすらに追いかける純情。ストーカーと化してしまえば意味することの説明もひとことに簡単に済むのだけれど、監督のいまおかしんじと主演の林由美香はそうとはさせない。

ボウリング場で働く、林由美香演じる愛子。
彼女はただ請われるままにボウリング場の店長である男の性欲を受け止め、一方で、郵便局員である彼、吉岡睦雄演じる良男に尽くす。思いを弁当に託し毎日毎日彼の元に届ける。疎ましく思う彼の気持ちを立場を慮らない彼女を無神経とは呼べない。呼べない魅力が彼女にある。無垢、と呼ぶのが一番しっくりくるか。
濡れ場でのあえぎ声でしか言葉を発することのない彼女。コミカルな動きで心情を表現したかと思えば、何の冗談かと思える動きも。まったくに掴みどころのない彼女だが、一途に、愛らしい魅力に溢れる。だからこそ、もどかしい。
コケティッシュなのとは違う。冒頭の防波堤の上でひとり弁当を食す彼女の姿からして、妙に乾いたイメージがある。反面、30歳半ばとは思えぬ可愛らしさ。特に目を見広げた時の、白目がちな大きな目をくりくりさせるさまは子供のよう。
しかし、同時に狂気を感じるのも確か。この恋愛劇が辿り着く先から巻き戻しての結論ではない。大きな目が魅力的であることと同時に、目の下の隈が常に意識される。彼女の、ボウリング愛に満ちた部屋はコミカルかつ愛すべきものであるが、喋るボウリング球に象徴される妄想も同居する。
コミカルと狂気。現実と幻想。愛らしく妄執的。その狭間を行き来する。
全て超越したところで濡れ場の彼女。思いつめたような、痛切な姿が彼女の本当の姿なのだと。だが、その時だけにしか自らをさらけ出すことのできない彼女にまたもどかしさを募らせる。堂々巡り。

シンプルに分かりやすく魅力をふりまく、良男の同僚であり彼を誘惑する、華沢レモン演じる郁美。押しの強さは愛子に通じるがとにかく分かりやすい。愛子を捨て、郁美になびく気持ちは十分すぎるほどに分かる。だが、振れたとしてもまだ愛子に戻ろうとする反動力にあがなえない気持ちも分かる。また、戻る。

良くも悪くも、林由美香の魅力に全編彩られ縛られた一品。
posted by やすゑ at 23:26| Comment(0) | TrackBack(1) | 映画 (た) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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