2006年05月31日

『嫌われ松子の一生』

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『嫌われ松子の一生』 ★★★★★

中島哲也、『下妻物語』公開時、「武器全てを使った」に近いことを言っていた。
しかし、まだ隠し持っていた。否。使う武器は基本的に変わらない。
中島哲也、渾身のフルスイング。ファイターズの小笠原ばりに。
いや。
まだ強く振れるのか? 彼が武器を惜しげなく使ってまだ二作目。
だとしたら恐ろしい。

幼少時代、厳格な父に物静かな母。時代をそのまま反映した家庭に生まれた松子。
厳格だけれど大好きな父は病弱な妹に構いっきり。なかなかに自分は構ってもらえない。このあたりは、主観的にそうであることを語るだけで客観的にどうであったかは語れない。得てして、父親からすればそうではなかったりもするのだが、ここでは言及されない。
(ちなみに幼少時代の松子を演じているのはドラマ「ちびまる子ちゃん」でまる子を演じた奥ノ矢佳奈。まる子の成長した姿でコメディアンを演じた木村カエラが本作ではそのまんま人気歌手なのが面白い)
以降、松子の主観性は半ばなくなり、彼女の存在は常に他人の口から語られる。もちろん、彼女の存在、主張は半端なく感じるのだけれど、思いがない。彼女の生き様がひとり歩きしていくのに対し、幼少の時分の松子がより主観的なのは意図したものなのだろう。だから、観る側も語り部たる、瑛太演じる笙と同様に彼女を深く知ろうと欲する。
終盤、彼女が再び主観性を取り戻す。彼女のリアルな存在がまったくないに関わらず。そこで彼女が接しているのも“家族”だ。

父親に構ってもらいたい。構ってもらいたい一心から生まれた健気かつ笑わずにいられない涙ぐましい努力。しかし報われない。
成人となった、中谷美紀演じる松子は中学校の教師となる。堅実な家庭に生まれた彼女はそのまま堅実な人生を送るかに見えた。
が。
ひとつの事件を機に人生は一変する。転落人生。それは加速度的にスピードを上げ、結局スピードを緩めないまま、人生を終える。
悲惨。と、ひと言に片付けることもできるかもしれない。“裏切り”、“満たされぬ愛”、“殺人”、“不倫”、“引きこもり”…悲惨と感じる記号は至るところにあるし、実際、端的に彼女の人生に接したらその想いは強く残るはず。
だが一方で、“生真面目な女教師”だったり、“ソープ嬢”だったり、“ヒモから離れられない依存女”だったり、“怪しげな隣人”だったり。それら記号を掬えばそれこそ作中ドラマに度々登場するありきたりな「2時間サスペンスドラマ」で、主役どころか脇役にもなれず、ワンシーン登場するだけの日の当たらない登場人物の顔も持ち合わせる。実のところスポットの当たらない人生。

しかし。
松子が幸せに見える。偽りなく。映像は偽りだらけなんだけれどね。
原色に彩られた毒々しいほどまでに華やかな映像の中、彼女の一途な思いに、満たされた顔に、錯覚を起こされているのは事実。だが、心の底で彼女を羨む自分が確実にいる。
「人の価値は人に何をしてもらったかじゃなくて、人に何をしてあげたかだよね」
よく言われる「愛は与えるもの?与えられるもの?」に近い。この問いに対する模範解答も建前も、厳然たる事実もどうでもいい。ただひとつ、彼女が与え続けたもの、与え続ける姿に、価値を感じることができる。与えてもらいたいと願いつついるばかりで、何も与えていない自分だからこそ。

前述した通り、記号だけ切り取れば、ひと言悲惨と言うのは簡単。彼女の人生を人づてに聞いたならばひと言、転落人生と片付けるかもしれない。
しかし、ノンストップに思慮浅く、間違った道を驀進し続ける彼女は間違いなく幸せだ。だから、ひと言には片付けられない。
本作…映画というある種の夢世界で彼女は輝き続ける。
確かに「ひとりは寂しい」と呟く姿にぎゅっと心が締め付けられることもある。
40歳を過ぎて引き篭もる姿に痛々しさもある。
そして、彼女の人生の幕引きとなる事件の真相には、切り裂かれるような痛みと、空虚な想いが伴う。これこそ救いようがない。
けれどそう思えるのは、彼女が少なくともそれまで幸せな人生を歩んでいたという証明にならないだろうか。幸せだったからこそ、最後の死に関わる事件とのギャップに、切り裂かれるような痛みを感じのじゃなかろうか。

加え、松子の甥たる笙の存在。
松子と直接的な接点はほとんどない。ないからこそ、きっかけとなる一枚の写真に当然のよう惹き込まれ自然と松子の人生を追うようなる。
無職。付き合っている彼女にも冗談のような理由で別れを告げられる。今時の若者。埋没した個性。ニュートラルな、無色透明な存在。自分を何色かに染めたいとは思う。でも思っていることすら気付いていないのは珍しいかも。だからこそ、個性しかない松子に無意識に、無性に惹かれる。
「(松子)おばさんのこと、神様だと思う」
これ以上の羨望…、いや想いがあるだろうか。観る側の立場を代弁する彼もまた心底、松子に憧れる。
もうひとりのキーマン、黒沢あすか演じるめぐみ。
彼女と、松子の戯れる姿がどれほど眩いことか。また、彼女の口から紡がれる松子の物語にどれほどの愛が溢れているか。男前っぷりには本当頭が下がる。笙も役得。これまた羨ましい。
松子と血の繋がりはあるが、生と死と隔たれた遥か遠い場所にいる笙。松子と血の繋がりはないが(文字通り)最も幸せな時期を共有し、強く精神的に結びついためぐみ。
めぐみに出会うことで、笙は精神的に松子に近付く。笙をフィルターにして観る側も松子に近付こうとする。

「“幸せ”なんて人それぞれ」
言い尽くされた陳腐な言葉も、松子に近付いてこそ重みがある。

蝶が舞い、踊り、月が喋り、天への続く階段を歩く。原色に彩られた世界はあたかもファンタジー世界かのよう。まあ、あまりに毒々しくあるので子供に向けられるようなファンタジーでないのは確かだろうけれど。
ただ、彼女の救いような華やかに人生を彩るのはこの映像に他ならない。ほんの小さな幸せに蝶が舞い、夕焼けを川べりから臨む彼女の後姿には哀愁と、仄かな愛らしさが同居する。結果裏切られることとなっても、そこに至る彼女の満ち足りた顔。
これが映画なんです。
どんな人生だろうと、人も羨むほどの人生へと(一時であろうと)転化させる魔法。
映像による嘘でもいい。でも、嘘こそが映画の持つ最大の武器。魔法。
嘘から生まれる真実だって、真実から生まれる真実以上にあったりするんです。

派手な映像に彩られるだけでない。半ばドキュメンタリーに近いトーンで彩られる、松子とめぐみの、友情を育むシークエンス。フラッシュバックで語られる松子の人生。彼女の幸せはこんなにもあったのだよ、と分かりやすく教えてくれる。
そして気付かされる。
彼女の求めた愛はいつでもあった。家族から。

ところで本作、明らかに『風とともに去りぬ』を意識。そういやスカーレットと松子って多分に被らない?
端的にいえば、アメリカのシットコム(本当、端的)、『ウエストサイド物語』などクラシックな趣がところどころ窺える。刑務所の場面は『ダンサー・イン・ザ・ダーク』。根底に『風とともに去りぬ』を置きつつ、新旧のミュージカル良いところ取り。
と言えるよう、音楽の使い方が抜群にうまい。時代を反映させた昭和歌謡から、BONNIE PINK、カエラ、AIら流行最前線の曲も見事溶け込ませるセンス。でも一番に心打たれるのはやはり「まげてのばして」なんだけれど。こればかりは作品の最も力強く確かなところに使われるのだからしょうがない。そして、最も力強く確かな存在である松子。を演じる中谷美紀。ジャンルを超えた芸達者が集まる中でまったく負けない恐るべき存在感。今さら自分が言うまでもなく、彼女の全てがまた注ぎ込まれている。
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2006年05月21日

『明日の記憶』

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『明日の記憶』 ★★★★☆

下手なホラー映画…否、上質なホラー映画よりも怖い。
今ある和製ホラーの隆盛の原因を探るに日常との直結は欠かせない。布団に入ってみたら…。シャワーを浴びていたら…。彼女の向こうに薄ぼんやりと見える存在しない人の影…。エレベーターに乗って背後に存在を感じたら…。畳に残る消えないシミ…。
そういう意味で、本作はまさに日常とがっちり直結。今ある日常の先に、そのまま本作と近い出来事が突如挿入される日が来る、かもしれない。そう考えた時の恐怖といったら。

認知症。アルツハイマー病。
当人からすれば、直面した時の感情を表すに一番近い言葉が“恐れ”(日常生活を普通に送れなくなることよりも、数十年培った記憶の消失に対する恐れ)であるなら、身近な人間からすれば“哀しみ”か。

認知症と診断された人間は、現代の医療技術では、進行を緩やかにすることはできても止めることはできない。徐々にフェードアウトしていく記憶。
対し、身近に寄り添う人間は?
先の人生がある。あるからこそ、本作における、認知症と診断された夫に寄り添う樋口可南子演じる妻・佐伯枝実子のよう、足を止め、その者に全面的に向き合うことができない。自らの人生は自らの足で歩まなくてはいけない。生きるために。ただ生きるためだけにも。
その中で誇大する存在…認知症の夫。一方、彼の記憶からは自分の存在が消されていく。
親しければ親しいほどに、自らの中に占める割合と反比例する形で自らを忘れられてしまう哀しみ。それは恐怖とも薄皮一枚のところにある。

本作における枝実子のよう、凛として、その者に接する自信は私にない。もちろん、世間体や自尊心が覚悟を作ることがあるかもしれないが、最後に頼りになるのはその者自身の強さ。慣れ、もあるかもしれない。人は苦難に直面、乗り越えることで成長する。

一方で、渡辺謙演じる夫・佐伯雅行の、直面時の弱さ。それでも進んだ先の強さ。というよりも自由。
これは、ひとりの人間として見た場合の精神的な脆弱さを言うのではない。自らの未来を失い、ある意味でそこで途絶えてしまったと感じることからくる恐怖。先に進むことを許されなくなった中で先に進むことしか許されない無常。
彼の歩む姿が、ただ感動を、共感を呼ぶのはそれが自らの姿だからだ。よほど達観した人でなければ、認知症と宣告された時、心の目を失う。どんな強気な人間あろうとも、むしろ強気であるほど弱い。ただ、怯えるだけでない。
人に接する時に生じる仄かな優しさに心揺れる。だから観る者も、香川照之演じる、クライアントの宣伝課長のある意味で容赦ないひと言に、水川あさみ、袴田吉彦ら演じる雅行の部下たちとの別れのひとコマに、揺れる。
また見えなくなることで、今まで当然としてあったものが見えなくなり、取り乱す。結果、彼は『もののけ姫』でも『カナリア』でも語られたシンプルかつ力強いひと言に拠りどころを見つける。結局、それしかないのだ。全てを剥ぎ取られ、それでも自分を肯定する言葉は。

認知症進行の過程の描き方が見事。
原作はあまりに飄々と、どちらかと言えば落ち着いた語りで人生の落日に臨む姿を描ききったが、映画は、映像は雄弁だ。
また、気を衒うことしか頭にないと思っていた堤幸彦の成長も忘れてはいけない。まさか彼の監督する作品で、星4つ以上付ける日が来るとは思いもよらなかった。
TV界の寵児として、またTVという枠の中では重宝がられた異端児も、映画という枠の中では暴走に歯止めが利かず、映画を自由と思うがゆえに作品世界を崩壊するまでに自由を謳歌し、自制を知らなかった。一方で、TVとまったく同じことをして新鮮味がまるでなく、映画監督として自らの立ち位置を見付けられないでいた。それは最新作『サイレン』でも顕著で、全て自らの頭の中で完結してしまっている感があった。(ただまだ頭の中で完結している分は良く、『ケイゾク』『恋愛寫眞』ではまったく完結できていなかった) 結果、彼の作品は自慰行為でしかなかった。
しかし本作はどうか。
渡辺謙の存在が作品内外で大きいのは確かだ。
彼の存在により、作品は大きくはぶれないし、堤幸彦も自粛を余儀なくされる。ある意味で、渡辺謙に身を委ねた。
その上で、主人公たる雅行が記憶を失い、遡っていく過程、進行する過程の中での描写の中で気を衒うのではなく、溶け込むように幻想的に思える描写が、認知症というものを浮き上がらせる。他者でなく、雅行自らの視線を強く印象付ける。
抑えられ、その中で自らを生かす形で、本作はまさに生きた。
観る者の“記憶に残る”作品に成り得た。
posted by やすゑ at 21:24| Comment(1) | TrackBack(2) | 映画 (あ) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

『陽気なギャングが地球を回す』

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『陽気なギャングが地球を回す』 ★★★☆☆

「何事も本気で楽しめるのは最初の10分」とは、某喫茶店マスターの言葉だが、本作も言葉そのままが当て嵌まる。
10分経ち、物語が一応の落ち着きを見せたら原作との差異、粗探しのスタートラインだ。そう思うことに自分自身嫌気がさすのではあるのだが…。
成瀬、響野、雪子、久遠…4人の陽気なギャングらが集結することとなった、とある銀行での事件。当時は加害者でなく、被害者。「俺たちならもっとうまくやれる」とばかり、(映像として)続けざま早々とスタイリッシュにおこなわれる銀行強盗。
原作で一気に読書に引きこんだ響野の演説は本作において一転、陽気なギャングたちの特殊能力紹介へと変わる絶妙な構成。
そのおかげで原作にある響野の、一貫しつつ脈略のない「記憶」に関する演説の魅力は損なわれるのだが、そのことも補って余りある、冒頭一気に淀みなく(多少の拙さはあるが)作品世界を紹介してしまう妙技には唸らされる。
併せ、成瀬、響野、雪子、久遠ら小説世界、二次元の世界の住人たちが一気三次元世界に映像として現出する興奮! 世界を回すは陽気なギャングたちで、今、我々の世界も彼らを中心に回っている。そのことを実感できる喜び。

ただ、そこまでである。我を忘れて世界に存分浸かれるのは。
映画と小説(原作)は別物。
過去に幾度となく、幾人もの人たちが使い、もはや使い古された言葉だ。ここは先人の言葉を尊び、以降、原作との差異から生じる不満をこぼすことはよそう。

本作における鍵は、どれだけ軽妙に、かつ洒脱に、ポップにコンパクトに軽快に一連の事件、及び付随する事象を淀みなく一気、語れるかどうかだ。
作中、放たれた銃弾がスローモーションで回転していく様をうっとりと眺めやり、銃弾に刻まれた文字にニヤッとさせられる場面があるが、それこそ本作に求められるもの、ある意味で凝縮。
ウェイトが恋話に流れることで、そこだけ他のテンションや時の流れと違い、緩やかにかつ落ち着いたものであることは気にならない。本作においては箸休めのようなもの。
だが、しかし。
なぜに心が躍らないのだろう。
彼らの起こす一連の騒動…四人の集結から始まり、裏切り、ワナ、演説、伏線、騙し合い、丁々発止な会話、どんでん返し、大円団と、構成の妙で一気見せなきゃいけないくだりが、あまりに雑然としているからに他ならない。一応はひとつひとつ仕掛けられたワナのような伏線を置いてはいるのだが、基本的に説明もしきれていないし、結実するものがあまりに杜撰。
例えば、車(グルーシェニカー)の扱い、あれほどに使えそうに登場しておいて、少なくとも、最後のラブパートのクライマックスの伏線となる銃弾ほどに役に立っていないのは解せないし、納得できない。
また、二転三転と主導権を奪い合い、果たして最後に誰が握るのかというクライマックスで怒涛のよう押し寄せる伏線の重なりはもう少し整然とはできなかったものか。あれでは観る側も、はたして誰が主導権を握るのかと予想する楽しみよりも、そのシーンに何が内包されているのか全て分かっている者(作り手)の傲慢、もしくは過信しか見えない。
杜撰な映像説明によって、最後、得られるカタルシスは求めようと望む半分にも満たない。
全てを見通せれていることからくる過信が全て。
話が入り組んでいるからこそ、語るべきものには念入りに取捨選択をし、構成していくべきであるし、それをコンパクトに、洒脱に見せようとするのは、次だ。

最後に。
「ロマンはどこだ」
うるさい。何度も何度も繰り返させるな。
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2006年05月13日

『約三十の嘘』

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『約三十の嘘』 ★★★☆☆

彼らとともに居たいと思ったから…。

“約三十の嘘”。
“詐欺師”。
“騙し合い”。
“会話劇”ならお任せ、“大谷健太郎”。

そんなキーワードを聞くうちにこれはコンゲームの傑作になるのではないか?と勝手な想像を膨らませていたのだけれど、これが(特に意味を込めず)肩透かしだった。
本作に於いて大事なことは、あくまで会話劇だということ。
何を於いても会話劇だということ。
ただ、どう役割分担がされたかは分からないけれど「脚本家は多ければ多いほど駄作になる可能性が高い」という勝手な法則を持つ自分にとって、原作者、監督、売れっ子脚本家、とそれぞれ立派な看板を持った三人がクレジットに「脚本」として名を連ねているのはいただけない。いつものように大谷健太郎のみであればより純度の高い会話劇を楽しめたのじゃなかろうかと。

「嘘」がメインテーマだと思われる本作であるが、実のところ真実しか語られない。
画からも。台詞からも。
何か含むところのあると思われるシーン、台詞、ともに演出によるところが大きいと思われるが、とことん真実として扱われる。そこに含まれるものは、観る側が最も容易く思うところに終始しており、織りなされる裏切りも、複雑に絡み合うのではなく、ひとつひとつ順を追って解かれていく。
最終的に誰が勝者で誰が敗者か?
考えるのに意味がない。本作はミステリじゃない。真犯人もいない。
騙し合いがないわけじゃないが重きを持つことはない。
心に何かを潜め停滞した人間たちが、たったひとり最後の最後まで嘘をつかないままいる人間をフィルターに通し、前進を始める物語。

本作に於いて、ほぼ密室劇であることが良くも悪くもある。
今までの大谷作品と言えば、同じく会話劇主流とは言え、足枷はなく、場所は自由に行き来していた。画面上だけなく、画面に映らない部分でも。
だが本作では肝心の詐欺の部分はカットされ、結果ほぼ密室劇となる。
おそらくは外の世界を描くことでより各々キャラクターの個性を出すことができたかもしれない。しかし、諸刃の剣で彼らの詐欺師としての部分ははっきり認識され、彼らの会話を純粋に楽しめなくなる。会話劇としては決定的ダメージだと言える。
だからこそ、とことん枷を付けることに作品の方向は決した。
保険として、膨らみを持たせるため、脚本に渡辺あやの参加があったのではないかと推測できるが、逆にストイックなまでの会話劇が邪魔される結果となった気がする。

プラス、マイナス。これほど混在した作品も珍しい。
しかし、そこに居たいと思った。

若手の芸達者が揃ったこともある。
椎名桔平、中谷美紀、妻夫木聡、田辺誠一、多少騒がしすぎるきらいはあるが八嶋智人、演技自体は全く下手であるが伴杏里…代わりとなる人間はいる気もするが、一方で彼らがベストのような気も―確信に近い意味で―する。
posted by やすゑ at 23:04| Comment(0) | TrackBack(1) | 映画 (や) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

『いま、会いにゆきます』

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『いま、会いにゆきます』 ★★★★★

ある雨の日。
一年前、亡くなった妻に似た女性が、梅雨はじめの雨の日、森の奥にある廃墟にひとり蹲っている。「自分が誰なのか」記憶を失ったままに。

これを見た妻を失った夫・秋穂巧と、忘れ形見である息子・祐司のふたりは、これ幸いと悪巧みを働かせます。
「あなたは私たちの妻(母)なのです」
見知らぬ人間の言葉に、記憶を失った彼女はただ「そうなんだ」と納得するしかない。状況証拠は揃っている。彼女はふたりに誘われるまま、彼らの家に誘われ、「決して家を出ぬように」と、半ば監禁状態に置かれます。
喜ぶふたり。
死んだ澪が還ってきた。
もちろん、死んだ人間が再び生前と変わらぬ姿で、しかも生者と何ら変わりなく存在することがあり得ようはずがないことくらいは知っています。まだ幼い祐司だったとしても。
彼女は、澪に似た別人。都合良く記憶を失っている。これ幸いとばかり洗脳し、自分たちの家族としてしまおう。せめて祐司の誕生日…初夏くらいまでは。

洗脳はうまく行きます。
彼女が、亡き妻とあまりにもそっくりなために、説得させるための材料はいくらでもある。
加え、彼らふたりの亡き妻への想いはいくら別人と分かっていたとしても、騙していると分かっていたとしても、はっきり認識しないまでに愛情(洗脳)を注ぐ。果たして彼らも自分たちがやっていることが悪しきことなのか、正しきことなのか、曖昧となり、次第に彼女を本当の澪として捉えていく。

巧は語る。
彼女の隣にいながら、決して交わることのなかった高校生活。
大学に入って初めての夏休み、理由を設けて「会いたい」と電話。
初デート。
そこでの、初々しく、温かいエピソード。
彼女を想っての別れ。
…再会…。

巧みの語る、亡き妻と共有した思い出を聞くうち、彼女は自然と巧に、“初めて”惹かれていく。自然と彼のキスを受け入れる。
「初めてのキスみたい」
当然です。初めてなんですから。

………とまあ、延々穿ったモノの見方で作品を観ていた部分もある。もちろん、こんな見方を全編、常にしていたのではなく、あくまで作品をそのままに受け止める時の余白を使って。
というのも、彼女の存在をそのまま「亡き妻(母)が雨の季節だけ還ってきた」と受け止めてしまうふたりに比べ、いくら説得力を持たせる、彼女が遺した絵本という材料があったとしても、彼女がさほどの違和感しかなく家族に受け入れられる様がどうしても信じられなかったからに他ならない。
彼女の存在以外の要素が、しっかり地に足ついていたからでもある。
彼女だけがふわりと浮いていた。彼ら家族にとってでなく、観る側にとって。

都合良すぎるかもしれない。
しかし、物語の解決編とも言えるエピローグで一応の解決を見る。
エピローグで先ず、物語が、恋愛の持つ多面性を見せる。先に語られた物語にはっきり分かる形で伏線が張られているので、これは予想の範囲だ。多少くどい気もするが、心地良い。
そんな気分になったところで、物語の鍵を握るエピソードがスッと挿入される。
彼女は、色々な意味で知っていた。
ここで穿った見方もできないこともないだろうが、心地良さを引っ張ってか素直に受け止められた。
彼女の、家族を想う気持ち、そして「いま、会いにゆきます」という言葉。
この瞬間幕であればどれほど心地良かったか。
画として近い『(ハル)』の“始まり”で終わる物語を想起させずにはいられない珠玉のラストを迎えられた気がする。その時間が、鑑賞後ずっと心に残った。
しかし、その後も蛇足に近い(しかしプロローグからすると必然の)エピローグが続く。否定する気はない。これはこれで、彼女だけでない家族の物語としての幕を得たからだ。親切に、優しく丁寧に。
ただ、欲を言えば潔さを求めたかったというだけの話。
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2006年05月11日

『燃ゆるとき』

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『燃ゆるとき』 ★★★☆☆

団塊の世代からすればそりゃ憧れるわな、というサラリーマンを中井貴一が、そのままのイメージで熱演。どれだけ叩かれようと、どれだけ苦難に立たされようと、どれだけみっともなかろうと、自分の信念を、自らの会社を、自ら信じたものを、信じ通す。どんな状況であろうと、中井貴一演じる企業戦士・川森は彼自身の髪型のようにまったく崩れないので半ばフィクションのよう。ただ、フィクションで良いと思う。中途半端に現実的であればあるほどに、それこそ周りを見渡せばいくらでも見つけることができるだろうから。

ボリュームある原作を、それこそ映画で取り上げられるカップ麺の製造よろしく、シンプルに無駄を排除した。コストダウンを目指すよう、無駄を削ぎ落とし、世界に挑む日本企業の現状を十分に見せ付けた上で、個人の物語として成立させる離れ業。多少、研磨されすぎて味気ない部分もあるが、それを補うのが個性豊かな役者たち。彼らもまた、川森同様に、苦難に多々され苦渋の選択を迫られようが、仲間を信じることを止めようとしない。
反発やぶつかり合い、一時的な諦念はあろうとそれは常に人を信じていく過程のひとつに過ぎない。馴れ合いとは違う、日本企業の家族的な繋がりを色濃く反映させている。
それは日本人同士の繋がりだけに収まらない。
とことん。徹底して見せつけられる。
もっとも顕著で分りやすく、裏表がないのが、川森たちがコストダウンの中でも品質を落としてはいけないと、麺を揚げるオイルにこだわる件。ラテン人気質溢れるアミーゴオイル社長と打ち解ける場面など、昔の日本映画に、近い場面をいくらでも見つけることができるだろう。彼ほど単純にはいかないが、川森のマネージャーである、サマンサ・ヒーリー演じるキャサリン、スティーヴン・クライヴス演じる会社の顧問弁護士ライアルなどもその渦に巻き込まれるわけだが、これはもう必然というより、世界を舞台にした現実社会の夢物語を構築するに欠かせないパーツとしての役割。キャサリンのエピソードなど全てを繋げる位置まで昇華されている。
また、伊武雅刀、長谷川初範、中村育二、木下ほうか、鹿賀丈史、津川雅彦、…これだけの曲者たちが一致団結する姿を見るだけでも希少的価値があるってもんじゃないか。
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『県庁の星』

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『県庁の星』 ★★★★☆

織田裕二の顔がシャープであるように、柴咲コウの顔がまたシャープであるように、両者の輪郭が明確であるように。ふたりとも、直線だけで似顔絵容易に描けそうであるし。

桂望実原作「県庁の星」をさして面白いと思わない。思わないが、小さな世界なり、現実に即した成長物語を内包したエンターテイメントとして成立していた。同時発生的に映像化の企画は進んでいたようだし、ひとつひとつパーツは十分あり、そこを基点に成長する可能性を秘めていた。スーパーの抱える裏トリビアや、行政と民間の分りやすい対立、弁当対決という勝負事を持ち込んでの持続…。
ただ、主人公の、映画では織田裕二が演じた“県庁さん”こと野村にしても、ひとつひとつのイベントにしても、物語の帰結にしても、いまひとつ掴みどころがなかったり、盛り上げるにしてもメリハリがなく上にはあるが低空飛行を続けていたり、ひと言で言えば曖昧、なのだ。

それを映画では、二極化にこだわった。
物語を引っ張るふたりに、恋心も芽生えよう人気のふたりを据える。織田裕二と柴咲コウ。お互い我の強い二人であり、行政と民間。エリートとパート。新人とベテラン。自我の強いこと以外、真逆の立場のふたりだから最初いがみ合うのは必然。もちろん、このキャスティングには、客を呼ぶ意図も大いにあっただろうが。原作の通り、若さが先立つ国家公務員と40歳代のベテランパートでは現実的であっても、普通に映像として惹かれないだろうし映えないだろうし。
加え、大まかに物語を捉えた場合、細かくエピソードごとに物語を区切った場合と、とにかく起と結だけを際立たせた。使用前、使用後としての野村の姿は然り。柴咲コウ演じるベテランパートの二宮アキもまた然り。
細かなエピソードで言えば、野村率いる多国籍軍Aチームと、おばちゃんパートたちから成るBチームとの弁当勝負。分りやすく(そして自然な形で)勝負を勃発させたかと思えば、そこに配された記号は、明らかな敗戦ムード、勝利に結びつくヒント、勝負を通しての団結。ここで、実際に県庁さんが何をしたかほとんど語られていない。あるのは、節々にある記号だけだ。
中身がないわけじゃない。そのため、逆に勝負としての意味合いよりもエピローグへ続く伏線としての意味合いが強くなった、野村とアキとのヒント探しがしっかり中を支えている。
作家性の強い映画であるよう、余白をふんだんに利用しているわけではない。その場合の余白は、自然な流れとして、渇望として、自分の想像で画を書こうとする観客に能動的な思考を促す余白だ。だが、本作は思考をまったくに促さない。そこにあるものが歴然としているわけでは当然ない。ないが、要らない。受動的にあって、まったくに流しても良い。監督がテレビ畑出身ということもあってか、受動的なメディアであるテレビを倣うかのように、物語は受動的であっても、全てを掴むよう計算尽くされている。
掴むべき輪郭が明確なのである。
そして掴むべき伏線も明確。

原作の一本筋な流れに比べると、それぞれの流れを並行して語ることにより、混線する可能性もあっただろう。決して単純な話でもなかったろう。
そうしたものを一度一緒くたにしてこれだけ明確な形として、構成し直したことは賞賛に値する。

全国公開される作品にこうした作品がかかるのは喜ばしいことだ。分りやすいフジテレビジョン印。こうした作品を入り口に日本映画ファンの裾野が広がる。
織田裕二は、分りやすく広く客を呼べる俳優という立ち位置となり、今回いかなる素材さえも自分のものにすることを証明し、ようやく新たな立ち位置で『卒業旅行』に追いついた。
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2006年05月10日

『ロボコン』

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『ロボコン』 ★★★★☆

冒頭、長澤まさみの舌足らずな感じと、オープニングタイトルの安っぽさ(狙い?)を見た時、正直ダメか…と思ったけれど、これがこれが。
比較されることの多い『ウォーターボーイズ』『ピンポン』とは、一風変わった青春時代を切り取った点では似ているが、演出はじめ他は全く違うベクトル、印象。
何よりも先ずロボット製作に頑張る4人が陰の方向にオーラを発していること。先に挙げた二作が結局はスポ根であり、いくらヘコもうとそこにはスポーツが持つ陽のオーラがあった。対し、こちらは理数系の青春映画、という惹句からも分かるとおり、インドアにありがちなイメージが付きまとう。良し悪しはともかく、それは演出にも実際のロボコン風景にも顕著で、総じて地味と言って良いかもしれない。
しかしそれが却ってウソのなさに通じるから不思議だ。

『ウォーターボーイズ』『ピンポン』にはある意味、青春を飛び越したウソがあった。別に否定的な意見でなく、それがそれら作品の面白味に繋がった。青春という名を借りたフィクション。もちろん強く共感した人もいるのだろうけど、どうしても自分を重ねるに難しかった。
しかし『ロボコン』は違う。
近い。自分が工業高校出身だから感じる身近さも当然多分にあるのだろけど、それを差し引いたとしても青春時代、普遍である何かがある。
例えば、ロボコン決勝前日。仲間で夜遅くロボット製作に力注ぐ合間、夜食のラーメンを皆で啜る風景。里美が言う。
「今日がずっと続けばいいね」
ありきたりな風景、と捻くれたことも言えるのだけど、これである。これぞ青春。青春という文字から想像できる青さや懐古とは違う。自分が確実に過ごしてきた、自分の一部と化して決して色褪せない風景。
このシーンに集約されるように、全編通して描かれるのは、仲間と、ひとりひとり力を合わせ、結束し、何かを成し遂げる至福の時間。瞬間。
派手さはなく、観客を煽る演出もなされていない。狙いか、はたまた天然かは分からないが、下手すれば抑揚をなくした演出は人の心に素直に入り込み、深くを抉る。
なぜかエンディング曲だけが妙に弾けているのだが、これは彼らが身体を使って表現するだけでは足りない心の爆発を表現した結果…と好意的に解釈しておく。

四人の仲間、それぞれが生きた、ひとりとして欠いていけないという思わせる脚本も見事。決して奇を衒っていないのだけど、それが却って昨今では新鮮さをましたかもしれない。

演じる、ムードメーカーで映画の主役である里美に長澤まさみ。前述した通り、冒頭舌足らずな感じで甘ったるく演じてこられた時にはどうかと思ったが、彼女の成長とともに生まれる真摯さと混ざり合い大いなる魅力になるから不思議。
小栗旬、伊藤淳史、塚本高史ら三人もそれぞれの役割を確実にこなしている。特に伊藤淳史の優柔不断さが好きだ。存在は薄いけれど、決して欠いてはいけない微妙な存在をうまく表現している。
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2006年05月09日

『リンダ リンダ リンダ』

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『リンダ リンダ リンダ』 ★★★★★

彼女たちを見せ物にした作品ではない。あくまで、彼女たちが過ごした時間を共有する作品である。彼女たちに姿を重ね合わせるも良し、彼女たちを少し離れた距離から見るも良し、自らの経験としてある時間を重ね合わせるも良し。
ただ、どちらかと言えばリアルタイムで彼女たちと姿を重ね合わせるよりも、過去の自分の姿を彼女たちでなくとも、その世界に重ね合わせられるほうが感情移入もしやすい。
「今を思い出になんてしない」と作中で女生徒が語るが、作り手は現実にそれを信じていない。いや、信じていないからこそ作られた空想世界(映画)の中にそれを実現しようとする。
だからこそ、本作は幕引きをしない。

この手の作品で近作近いものを探すなら間違いなく『ロボコン』だ。対外的な溌剌さよりも、仲間内との、得がたい彼女らだけが持ち得た珠玉の時間をただただ映し出す。
夢中になるあまりの時間の消失。激突。語らい。決して派手さはないけれど。
ペ・ドゥナ演じる韓国からの留学生・ソンが誰もいなくなった露店を独り駆け抜けるが、彼女たちの文化祭は、場にあるのでなく、仲間との時間の中にある。
くさい言い方をすれば、この時間こそ永遠であり、それを切り取ろうとするのが本作だ。

ただ、あくまでカメラは彼女たちを至近で捉えようとはしない。
ただ単純に、監督である山下敦弘の作風とも言えるが、実のところ、監督自身やそして自分とも重なるところのある、中心にいなくとも、素直に近付きたくて近付けなかった人間たちの視点であるのではないかと思う。だからこそクライマックス、舞台上で歌う彼女たちだけでなく、夢中になって取り巻く生徒だけでなく、一歩離れた場所から彼女たちを見上げる生徒さえも映し出そうとする。そこにいる人間のジレンマをも映し取ろうとする。
それを映画的でないと捉えることは簡単であるし、最近では矢口史靖監督の『ウォーターボーイズ』『スウィングガールズ』を絶対として、それと比することで批判することも簡単だ。どちらの切り口が正しいとは言わない。ただ、本作では彼女たちは刹那的に、彼女たちのみをフィルムに収めているのでなく、永遠に時間をもフィルムへと収められている気がしてならない。

タイトルの由来となり、作中のガールズバンド「パーランマウム」が奏でる「リンダリンダ」。原曲を歌っていたブルーハーツに、作中でこれまた歌われたり口ずさまれたりするユニコーン「すばらしい日々」、ジッタリンジン「プレゼント」。これら曲は、ある年代の人間にとっては、彼女たちの仲間と共有した時間と同様に、思春期の過程で心に刻まれ、絶対的な位置を占める名曲。
歌は記憶に結び付く。だからこそ、名曲の数々が、自分の記憶と結び付き作中から得られるだけでない、自分の中にある何を目覚めさせることでまた作品を輝いたものとしてくれる。

もちろん山下節も健在で、ソンを中心とした日韓のカルチャーギャップ、言葉のギャップに頼るところはあれど、淡々と、大笑いはしないけれど思わず笑みをこぼしてしまう、ちょっと毒も入った笑いがところどころに塗されている。
「パーランマウン」のメンバーそれぞれを演じるペ・ドゥナ、前田亜季、香椎由宇、関根史織から、容易に想像できる華やかさは決してない。紋切り型に高校生というイメージから得られる溌剌さもない。極端に振れる形で陰湿でも当然ない。ただ、漠然とした悩みや、切なさの裏にある喜びを噛み締めたような姿を見せ、カメラは写し取る。
山下組ではお馴染みの山本剛史が今回おいしい役どころ。他、湯川潮音、山崎優子ら本業ミュージシャンが本領発揮できる役どころで記憶に残る歌声を披露。甲本雅裕が教師役に抜擢されているのはブルーハーツとの繋がりからか。
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2006年05月08日

『転がれ!たま子』

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『転がれ!たま子』 ★★★★☆

自分の中では『ビッグ・フィッシュ』に連なる作品だと思っているのだけれど…。
人を喜ばせようと、自らが楽しくあろうと作り上げた御伽噺の典型。
ただし、御伽噺とはいえ、ニートだ、人間的成長だ、と現実的側面、流行側面、映画的側面も含んだ形として成立しているのはしょうがない。いや、むしろたいしたことだ。
けれど、個人的には成長譚として捉えたくない。捉えない。成長はドラマを成立させるための付加要素としてあるのであって、たま子の愛すべき人生の一端でしかない。そこから何かを学ぶことはできる。感じることはできる。でも、そんなこといいじゃないか。『ビッグ・フィッシュ』で親子愛以前に、親父の大法螺話に心躍らせたように、たま子の愛すべき人生を覗き見た喜びに身を浸したい。
言ってしまえば、たま子を取り巻く、(たま子のいないところでの)騒動はさほど興味がない。面白おかしくしようという、もしくは物語を進めるための後押しの意図が透けているので興醒めしてしまう。

たま子のキャラクターが秀逸。
実際に間違いなくあり得ない(よね?)のだけれど、演じる山田麻衣子の愛らしさも相成って見ていて楽しくなってしまう。微細な表情で演技させようとするでなく、大胆に分かりやすく演技させているのが正解。冒頭、基本としてある不幸顔のせいで、職場の男性が言うよう「よく見れば美人だけれどブス」ってのが、そのまんま受け入れてしまえる。
キャラクターもそうだけれど、たま子の関わる多くにおいて振り切れているのが作品世界を御伽噺として成立させている要因。明らか。だからこそ、鉄兜も、甘食への、弟子入りへの熱い思いも、転機前の極端な閉鎖世界も、転機の予兆となる幻想も許せてしまう。逆に、割に現実的な面が見えたりすると「おや?」と思ってしまうのだけれど。
総じて、ひとつひとつは奇形でも作品としては納まりが良い。良いけれど、奇形は奇形のままであることを望む自分も、多分にいる。

ちなみに、たま子の小学生時代を演じるのは坂野真弥。『茶の味』の彼女だ。二枚目だね。
posted by やすゑ at 22:16| Comment(0) | TrackBack(0) | 映画 (か) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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